飛び抜けた成績よりも、飛び抜けた記憶を築いた【広瀬哲朗】の足跡!
2016年11月25日 更新

飛び抜けた成績よりも、飛び抜けた記憶を築いた【広瀬哲朗】の足跡!

日本ハムで12年と短い現役生活ではあるが、決して他の有名選手のように成績を残している訳ではない。しかし、広瀬ほどチームを引っ張れる選手はいなかったであろう。ファンも同僚にも全力な広瀬哲朗を見せ続けたことで、今でも人気は高い。そんな日本ハムの全力男の軌跡を語ります。

5,963 view

鉄壁の守備で二遊間を守り続けた男!広瀬哲朗

広瀬哲朗(ひろせ てつろう)

広瀬哲朗(ひろせ てつろう)

1961年1月23日生まれ
身長176cm、体重72kg
右投げ右打ち
ポジション:遊撃手、二塁手、三塁手

日本ハムの全力男として、ファンを魅了した男は、主に守備固めとして起用されることが多く、全盛期には白井一幸と共に、二遊間を鉄壁の守備で守っていた。

広瀬哲朗の獲得タイトルや主な表彰と記録

ジュニアオールスターゲームMVP (1986年)
ベストナイン:2回 (1993年、1994年)
ゴールデングラブ賞:2回 (1993年、1994年)

シーズン守備率:.991 (1992年)※達成当時、遊撃手としてのパ・リーグ新記録

広瀬哲朗のプレースタイルは?

鉄壁の守備を誇る情熱の戦士

鉄壁の守備を誇る情熱の戦士

バッティングは決して、お世辞にもすごいとは言えない状態だったが、守備に関しては最高級の選手だった。日本ハムの主軸選手だった田中幸雄を外野に持って行ったのは、広瀬の守備を勉強させるための意図もあったらしい。
他に見ない独特のタイミングの取り方から右打ちに徹することで、バッティングが開花し、守備だけでなく打撃も花が開きました。

更に、ホーム、二塁などではなく、一塁にヘッドスライディングをする闘志あふれるプレーでガッツのある男として人気を博した選手です。

広瀬哲朗のプロに入るまでの軌跡

静岡県立富士宮北高校から駒澤大学に進学。同野球部では東都大学リーグで1980年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で明大に敗れ準優勝。1982年の日米大学野球選手権大会日本代表にも選ばれる。リーグ通算99試合出場、352打数100安打、打率.284、2本塁打、32打点。ベストナイン(遊撃手)4回。大学同期に近藤満、1年下に二遊間を組んだ白井一幸がいる。
1982年のプロ野球ドラフト会議にヤクルトスワローズから4位で指名されたが拒否[1]。本田技研工業に就職し同野球部で活動。1984年から2年連続で都市対抗に出場。1985年の社会人野球日本選手権大会では伊東昭光の好投もあって初優勝、同大会の優秀選手賞を獲得する。同年の第7回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表となり、社会人ベストナイン(遊撃手)にも選出されている。なお駒大から本田技研に移る段階では卒業単位を満たしていなかったが、本田技研時代に単位を取得し、卒業している。

日本ハムに入団したが、苦難の道で花開くまで厳しい道のりでした。

1985年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズに1位指名[2]され入団した。ヤクルト指名時は川相昌弘の外れ4位、日本ハム指名時は清原和博の外れ1位という二度の代役指名を経験した。[3]
入団当初から守備力があり、1986年のジュニアオールスターゲームでMVPを獲得したが、打撃が弱く、一軍への定着は遅かった。1989年、近藤貞雄が監督に就任すると、一芸に秀でた選手を好む同監督のもとで、バント要員、守備固め、代走での出場を主として頻繁に起用されるようになった。1993年、大沢啓二監督に闘志を買われ主将に就任[3]、32歳にして遊撃手のレギュラーに定着した。
やっと、光を浴びれるようになったって感じですね。
 (1614230)

1993年と1994年には2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞(遊撃手部門)を受賞した。[4]
1995年からは、田中の遊撃手再コンバートに伴い三塁手として出場。同年のパシフィック・リーグ東西対抗でマウンドに上がったイチローと対戦し、投手ゴロに打ち取られた。広瀬によれば、本来は清原和博(当時西武ライオンズ)が打席に入るところだったが、清原が広瀬に「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言ったそうである

1996.5.21 日本ハムvsオリックス7回戦 13/15 - YouTube

鈴木平 デューシー 小川皓市 金子誠 広瀬哲朗
1997年は、落合博満の加入により一塁手の片岡篤史が三塁コンバートとなったため、広瀬の出番は大きく減る。
1998年は故障のためシーズン序盤で戦線離脱。復帰後は出番が一・二軍共に殆ど無く、チームは一時快進撃を見せながらも終盤失速して2位止まり。故障により「納得がいくプレーができなくなった」、「最後は一軍で終わらせたかった」と語り、一度も優勝を味わうことなく現役を引退した。同期生で仲が良かった田中幸雄からは「どうにか故障を完治させてもう一年やったら」と提案もされたという。

野球の現役を退き、その後の広瀬は・・・

引退と同時に、その人柄からか人気を博していたので、テレビ朝日・文化放送の解説者に就任しました。さらには、タレント活動も開始して、2001年には歌手デビューも果たしているほど・・・。

タレント活動の傍ら、2001年から2005年まで女子野球の日本代表監督に選ばれ、2003,2004年には世界大会で優勝するほどまでになり、野球人としての活躍も魅せております。

ジェラシーゲーム  広瀬哲朗&紫艶   デュエット - YouTube

ジェラシーゲーム 広瀬哲朗&紫艶。 デュエット曲。
24 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

【間柴茂有】戦後初の勝率10割!日本ハム19年ぶりの優勝に貢献した投手!

【間柴茂有】戦後初の勝率10割!日本ハム19年ぶりの優勝に貢献した投手!

投手のシーズン勝率10割といえば、記憶に新しいところでは、2013年の楽天・田中将大投手の24連勝を思い浮かべる人が多いかもしれません。実は、戦後に限ると、過去にもう一人いました。それが、1981年の日本ハム・間柴茂有投手。今回は、間柴投手の勝率10割と日本シリーズの成績を振り返ります。
izaiza347 | 326 view
【プロ野球】新人王とMVPのダブル受賞!NPB史上2人の投手だけ!

【プロ野球】新人王とMVPのダブル受賞!NPB史上2人の投手だけ!

プロ野球の新人選手が初年度いきなり活躍して、新人王だけでなく最優秀選手(MVP)まで受賞するのは極めて稀なことです。あの長嶋茂雄選手や清原和博選手でも、同時受賞は果たせませんでした。NPBでこれまで同時受賞した選手は、わずかに2人。いずれも投手です。しかも、いずれも優勝を逃したチームの選手。さて、誰でしょうか?
izaiza347 | 2,924 view
【プロ野球】阪神の工藤!日ハムの工藤!西武の工藤!1980年代に活躍した3人の工藤投手

【プロ野球】阪神の工藤!日ハムの工藤!西武の工藤!1980年代に活躍した3人の工藤投手

"1980年代に活躍した工藤投手" といえば、今でこそ「工藤公康投手」を挙げる人がほとんどでしょうが、その当時には、パ・リーグで最多勝のタイトルを獲得した工藤投手、セ・リーグで21年ぶりの優勝に貢献した工藤投手もいました。今回は、そんな "3人の工藤投手" を振り返ります。
izaiza347 | 356 view
【武田一浩】史上3人目!全12球団から勝利したピッチャー!1998年には最多勝も記録

【武田一浩】史上3人目!全12球団から勝利したピッチャー!1998年には最多勝も記録

セ・パ交流戦が始まる以前、公式戦でセ・パ全12球団から勝利を挙げた投手はわずか3人です。その一人が、今回ご紹介する武田一浩。最多勝、最優秀救援のタイトルも獲得したことのある実力派で、中日ドラゴンズのリーグ優勝にも貢献しました。そんな武田投手の各球団初勝利の軌跡を振り返ります。
izaiza347 | 508 view
【大型トレード】どっちがトクした!?張本を獲得した巨人?高橋一・富田を獲得した日本ハム?

【大型トレード】どっちがトクした!?張本を獲得した巨人?高橋一・富田を獲得した日本ハム?

1975年のプロ野球オフシーズンには、二つの大型トレードが話題になりました。一つが、阪神(江夏豊、望月充)と南海(江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫)のトレード、そしてもう一つが今回ご紹介する、巨人(高橋一三、富田勝)と日本ハム(張本勲)のトレードです。チームの強打者とエース投手が動いた大型トレード。巨人と日本ハム、果たしてどちらのチームがトクしたのでしょうか?
izaiza347 | 1,198 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト