吉本新喜劇とは
関西ではNGKのほか、よしもと祇園花月でも座員による新喜劇が上演されており、東京ではルミネtheよしもとを本拠地とする芸人たちと「やめよっカナ!?キャンペーン」時代の若手で主役級だった今田耕司たちを座長とした、新喜劇所属ではない集団による演劇もチーム(班編成)で連日上演されている(東京での上演経緯と現況については後述)。
新作は毎週月曜日または火曜日に上演されている。このため、台本を受け取るのはその前日か当日で、前日の2回目興行終了後から最長で午前1時ごろまで立ち稽古を続けていることがある。その様子はなんばグランド花月公式サイトにおいて、「のぞき穴」(劇場内にあるライブカメラを使用)のコーナーでうかがえていたが、2007年12月に公式ホームページがリニューアルされてからは取り止められた。なお、新喜劇は金曜日がカメラリハーサル(「カメリハ」)で、一度芝居をカメラで試し撮りをし、翌日の土曜日の原則2回目公演時にテレビ収録をしている。
毎年正月公演時には若手出演者の誰かが酔っぱらって舞台に立つのが恒例となっていたが、公演に差し障りが出るために2007年からは吉本興業の指示により、楽屋での飲酒は禁止された[3]。
なんばグランド花月劇場(NGK)で本公演が行なわれ、毎週土曜日に『よしもと新喜劇』としてテレビ放映される[1]。また、地方公演として座員を絞った形での巡業によって公演される(よしもと神戸花月など)。
池乃めだかをはじめとする数人の新喜劇座員と、よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のお笑い芸人らが共演する新喜劇風の舞台喜劇の番組(『日曜笑劇場』 → 2012年4月~2013年3月放送、『熱血!人情派コメディ しゃかりき駐在さん』)も伝統的に朝日放送(ABCテレビ)で放送されていたが、こちらでは毎日放送(MBSテレビ)で放送される『よしもと新喜劇』と違って、毎回の舞台設定やレギュラー出演者の役柄設定などは固定されている。以前は読売テレビでも、『吉本コメディ』の名で放送されており、こちらも同様の構成であった[2]。
吉本新喜劇 佐藤太一郎企画その16
— 佐藤太一郎(吉本新喜劇) (@satotaichiro) March 1, 2016
『未来の今日』
稽古場風景はこんな感じ。
どんどん仕上がってきています。
下記の回は、置きチケできます。
3/5 14:00
3/5 19:00
3/6 19:00
連絡お待ちしています。 pic.twitter.com/ODJA4vY9be
吉本新喜劇特別講演
— 安田大サーカス クロちゃんふわふわーすた (@kurochan96wawa) February 29, 2016
吉本砦の戦い
うるう年スペシャル
「松竹芸能軍の来襲」
なんばグランド花月に出れて嬉しかったっす!
しかも、今回は、鮫島幸恵ちゃんと恋人設定で♪
生新喜劇マドンナ選挙で2位とった可愛い幸恵ちゃんワワワワワァ〜♪ pic.twitter.com/awYQ6S2cBR
「日曜月」リハーサル - YouTube
座長
大阪府大阪市西成区出身。吉本興業所属。妻は同じ新喜劇の主力で女優の未知やすえ(お笑い芸人としての立場では、やすえの後輩にあたる)で、1児の父でもある。大阪府立東住吉工業高等学校卒業。ダウンタウン、トミーズ、ハイヒールと同じ大阪NSC1期生。
吉本新喜劇 内場勝則さん - YouTube
やや気の弱めで善良な若い役、例えばチャッカリした性格の新人、アホな御曹司(アホボン)の役(この場合、大抵は烏川耕一がツッコミ)が多く、過去には桑原和男のようなおばあちゃん役も務めたことがある。大きな立ち回りや目立つセリフ回しはあまり用いない方で、ストーリーの流れや結末を引き立てるのを得意とする。この上にボケもツッコミも器用なことから、今田耕司が「スーパー座長」と名付けた経緯もある。
内場勝則といえば。
— うっちゃん@新喜劇 (@shinkigekisuki) March 2, 2016
1993年、山田知一(現在はやまだともカズの名で構成作家として活動)と漫才コンビ「ビリジアン」を結成[4][7]。フルーツ大統領のメンバーに編成されるなどするも、相方の山田が構成作家を志し、見捨てられるようなかたちで2001年に解散[4]。この時「俺はおもろない、売れない」と思っていたという[8]。
小籔は二つの夢を持っており、一つは芸人の世界で成功すること、もう一つは幸せな家庭を築くことであった[9]。だが小籔は芸人として売れる夢は潰えたと考え、芸人を辞め警察官[4]もしくは普通の職業[9]に転職し、交際中の女性と結婚し、幸せな家庭を築こうと考えたが[9]、芸人仲間の野性爆弾ロッシー、シャンプーハット小出水[4]、ケンドーコバヤシ、バッファロー吾郎[9]らに「絶対売れる」と慰留され[4]、こんなに気のいい人たちばかりの職場は無いと感動[9]。交際中の女性に「一年だけ」と約束し、芸人を続けることとなる[9]。なおこの時、映画監督である山田洋次の助監督から、お笑いが駄目なら役者になれば絶対食える、東京ではスラッっとしていたら男前は普通だが、スラッとしてブサイクと言う小籔には絶対に需要があり、食っていけると助言されていたと言う[10][* 2]。
【爆笑】小藪千豊のバリエーション豊富なぶちギレシーンをまとめてみたら凄いことになった - YouTube
解散と同じ2001年中に、吉本新喜劇に入団。だが入団後9ヵ月ほどはずっと「お客さんの役」をやらされ、辞めようかとも思ったほどであると言うが[* 3][11]、「大きな声を出すとあばら骨が折れる」虚弱なチンピラ役や[11][2]のちに座長の一人となる川畑泰史と組んでの芸が人気を集める[12]。なお当時小籔と川畑はくすぶっている者同士非常に仲が良かった。酒の席での大見得をきっかけに小籔と川畑で作ったプロットを新喜劇の台本作家・壇上茂に見せてみたところ、壇上はこれを評価し、脚本化した。その舞台が好評であったため、定期的に小籔・川畑のコンビが見られるようになったと言った次第である[13]。
実は生活の安定を志し、バッファロー吾郎Aの勧めもあり[12]新喜劇に入団したのであるが、吉本の社員には「新喜劇は芸人再生工場じゃない、辞めろ」などと言われ[14]、さらに新人である小籔の月収は平均2万円程度に過ぎず、男が食わせていくものだと思っていた小籔にとっては相当に辛い状態であったが、ファミレスでのバイトとのかけもち、および妻の収入、そして趣味であった漫画とカメラを一時辞めることで不遇の新婚生活を乗りきったという[12][9][15]。
小藪千豊「Perfumeのポスターあるじゃん😍 写真をパチリっ‼️と思ったら😱 ねぇ‥て聞こえたから振り返ったらモノホンっ😭びっくりして鼻からマカロニがでたょ😅 じわる👻 またレーザービーム一緒に踊ろー🤖🚀💡😘 」#prfm pic.twitter.com/ZweCk5AE7U
— Perfumeネタbot (@prfm_neta_bot) February 29, 2016