入団当初の小久保選手
1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、銅メダル獲得に貢献するなど、アマチュア時代からその能力が飛びぬけていた小久保選手。1993年のドラフト会議でダイエーホークスに2位で指名されて入団する。入団一年目から一軍入りしたものの、プロの壁に当たり、最終的に78試合に出場し、打率.215・6本塁打という不本意な成績でシーズンを終える。
via mainichi.jp
小久保選手がブレイクのきっかけとなったのが、その年のオフに参加した「ハワイ・ウインター・ベースボール」。そこで首位打者とMVPに輝いた小久保選手は翌年の1995年、二塁手のレギュラーを奪取すると、全試合出場、28本塁打を放ちパ・リーグの本塁打王に輝くのでした。
忘れてはならない、一つの事件
96年は不振に終わったものの、97年は打率.302・36本塁打・114打点の好成績を挙げて小久保選手は打点王を獲得。そんな順調な選手生活の中で「一つの事件」が起こります。
断っておきたいのですが、私は輝かしい小久保選手の経歴にことさらキズつけようという気もありません。ただ、97年のオフに球界を揺るがす「プロ野球選手脱税事件」が発覚。小久保選手も主犯格の1人として捜査をうけ、裁判の結果、懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡されているという事実は、彼の球歴において忘れてはならぬ出来事だと思うのです。
断っておきたいのですが、私は輝かしい小久保選手の経歴にことさらキズつけようという気もありません。ただ、97年のオフに球界を揺るがす「プロ野球選手脱税事件」が発覚。小久保選手も主犯格の1人として捜査をうけ、裁判の結果、懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡されているという事実は、彼の球歴において忘れてはならぬ出来事だと思うのです。
この事件を受け、小久保選手は、1998年の開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受けています。
突然の無償トレード
小久保選手はその後怪我で戦列を離れたり不調に陥るシーズンはあったものの、1999年の日本一。2000年のリーグ優勝に大きく貢献。30歳で1億円プレーヤーにもなり、ダイエーホークスの主砲・精神的な支柱として確固たる地位を築いていくのです。
個人タイトルには手が届かなかったものの、2000年~2002年まで3年連続で30本以上の本塁打を放つ(31本、44本、32本)など好調なシーズンを送っていた小久保選手ですが、2003年のオープン戦でホーム生還時に相手選手と交錯。右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷・外側半月板損傷・脛骨と大腿骨挫傷という全治6ヶ月以上の重傷を負います。
個人タイトルには手が届かなかったものの、2000年~2002年まで3年連続で30本以上の本塁打を放つ(31本、44本、32本)など好調なシーズンを送っていた小久保選手ですが、2003年のオープン戦でホーム生還時に相手選手と交錯。右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷・外側半月板損傷・脛骨と大腿骨挫傷という全治6ヶ月以上の重傷を負います。
via cache2.nipc.jp
小久保選手を欠いたものの、チームは3年ぶりのリーグ優勝、4年ぶりの日本一を達成。優勝決定時には小久保選手も駆けつけ共に優勝を祝った・・・数ヵ月後、小久保選手は突如「無償トレード」で巨人に移籍することになるのでした。
via mainichi.jp
この無償トレードの真相は、当時の球団社長が言ったとされる「うるさい小久保がいなかったから優勝できた」という言葉をめぐって小久保選手との間に確執があったとか、怪我の扱い・リハビリの渡航費、治療費が球団から一切支払われなかった・・・など様々な原因があると言われています。
この決定にダイエーの選手は、日本一の優勝旅行をボイコットするなど球団に対して反発する姿勢を見せました。
この決定にダイエーの選手は、日本一の優勝旅行をボイコットするなど球団に対して反発する姿勢を見せました。
奮闘した巨人時代
巨人に移籍した2004年、小久保選手の怪我は完治していたとは言いがたい状態でしたが、開幕当初から主力として活躍。アテネ五輪でチームを離れた高橋選手に代わって4番を務め、この年41本塁打を放ち、見事に復活を果たすのです。
ちなみに堀内政権の1年目となったこの年、一番から仁志、清水、ローズ、高橋、小久保、ペタジーニ、阿部、二岡と続く打線は259本塁打を記録。「史上最強打線」と呼ばれたのですが、投手陣が振るわずこれだけの打線を誇りながらチームは3位に終わるのです。
ちなみに堀内政権の1年目となったこの年、一番から仁志、清水、ローズ、高橋、小久保、ペタジーニ、阿部、二岡と続く打線は259本塁打を記録。「史上最強打線」と呼ばれたのですが、投手陣が振るわずこれだけの打線を誇りながらチームは3位に終わるのです。
via www.jiji.com
2005年シーズンも34本塁打を記録。巨人ファンにとっては「暗黒時代」と評される堀内政権において、小久保選手は唯一の光明と呼ばれる程奮闘していたのです。
2006年シーズンには、巨人軍第17代目の主将に指名される程、選手の中心でした。
(他球団から移籍してきた選手としては初めての事)
第二期原政権の初年度となったこの年、小久保選手は6月に古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折。復帰後も思うような活躍をすることが出来ず、チームも3年連続のBクラスに沈みます。
2006年シーズンには、巨人軍第17代目の主将に指名される程、選手の中心でした。
(他球団から移籍してきた選手としては初めての事)
第二期原政権の初年度となったこの年、小久保選手は6月に古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折。復帰後も思うような活躍をすることが出来ず、チームも3年連続のBクラスに沈みます。
ホークス復帰
2006年オフ小久保選手はFA宣言。ソフトバンクに球団名称が変わっていた古巣のホークスに復帰します。