【槙原寛己選手】完全試合を達成した、伝説の「先発三本柱」の1人
2016年11月25日 更新

【槙原寛己選手】完全試合を達成した、伝説の「先発三本柱」の1人

1990年代の巨人には他球団が羨む先発投手が三人所属していた。 斎藤雅樹、桑田真澄と共に「先発三本柱」と呼ばれた男、槙原寛己投手。 抜群の成績を残しながら「エース」と呼ばれる事はなかった槙原投手の活躍を振り返る。

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●「3人1組」にされる事が多かった槙原投手

槙原寛己投手は大府高校時代から、同学年で愛知県の学校のエースだった工藤公康投手(名古屋電気高)、浜田一夫投手(愛知高時代)と共に「愛知三羽ガラス」と呼ばれ注目されていました。
槙原投手は1981年の第53回選抜高等学校野球大会に出場、ストレートが当時の甲子園最速記録となる147km/hをマーク。この年のオフ、読売ジャイアンツに1位指名され入団します。

1983年に一軍初登板にして初完封を達成すると、この年12勝1セーブ(9敗)の成績を挙げ、新人王に選出。同年代の若手選手として活躍した駒田徳広選手、吉村禎章選手らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれました
50番トリオ

50番トリオ

「50番トリオ」と呼ばれた3人(背番号50の駒田、背番号54の槙原寛己、背番号55の吉村禎章)

●「3本柱」の成績を比較する

槙原投手は同時期に活躍した、斎藤投手・桑田投手と共に巨人の「三本柱」と呼ばれ他球団の脅威となりました。この「三本柱」が現役時代に残した輝かしい成績を下に挙げると・・・。

槙原寛己(1983~2001年) 159勝128敗56S 防御率3.19
斎藤雅樹(1984~2001年) 180勝96敗11S 防御率2.77
桑田 真澄(1986~2007年) 173勝141敗14S 防御率3.55

それぞれリリーフを経験する事もありましたが、完投能力が高い3人は長く先発の文字通り柱となってチームを支えました。なにせ他球団なら文句なくエースになっている投手が同時期に3人も揃っているのだからたまりません。3人それぞれが全盛期だった1989年には斎藤が20勝、桑田が17勝、槙原が12勝を挙げるのですが・・・3人合計の49勝は、この年最下位だった大洋が挙げたチーム全体の勝利数の47勝を上回ったのです。
この年、巨人はチーム全体では89勝。2位の広島に9ゲームの大差をつけてリーグ優勝。近鉄との日本シリーズでは3連敗からの4連勝で日本一になるのです。
伝説の3本柱

伝説の3本柱

斎藤投手や桑田投手が、最多勝、最優秀防御率、投手として最高の栄誉である沢村賞など輝かしいタイトルを受賞していく中、シーズン通じての最高の勝利数が13勝である槙原投手は「3本柱の3番目」と見られたり、下記の「10.8決戦」や首位攻防戦など大事な試合でファンの期待を裏切る投球を見せることも多く、心無いファンから「お前の柱は腐ってる」とヤジられる事も少なくなかったのです。
※勝利数が少なかった背景には槙原投手の時には、相手チームの先発投手との兼ね合いで打線の援護が少なかった事も関係していると言われています。

伝説の「10.8決戦」で先発する槙原投手 

出典 youtu.be

●「完全試合」達成!

さて、そんな「三本柱の三番目」と目されていた槙原投手は、1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で斎藤投手・桑田投手はおろか、槙原投手以後誰も達成していない「完全試合」を達成。

※槙原投手は引退する際「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と記者に聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」とこの完全試合の事を挙げている。

この年の日本シリーズで宿敵・西武ライオンズ相手に2勝を挙げる活躍を見せ、シリーズMVPに選ばれています。

槙原投手、完全試合達成

槙原投手がとった全27アウトを動画にて
出典 youtu.be

●槙原投手と阪神戦

さて、槙原投手といえば、対阪神戦での投球があまりにも印象的でしょう。

槙原寛己投手の対阪神戦の成績は38勝10敗、勝率は実に.792と圧倒的な勝率を誇るのですが…。
そのうちの「2敗」の負けっぷりがあまりにも有名で今も野球ファンの間で語り草となっています。
特に下の試合は、「いい意味で巨人ファンの印象に残る試合」が完全試合なら「悪い意味で巨人ファンの印象に残る試合」であることでしょう。

伝説のバックスクリーン3連発

阪神ファンの方は擦り切れるほど見たであろうこの光景。
その時マウンドにいたのは「50番トリオ」として売り出し中の槙原投手でした。
出典 youtu.be
ちなみに上のバックスクリーン3連発のあと、実は巨人も9回にクロマティ、原辰則の連続ホームランを放ち、続く中畑清もあわやホームランという大ファールを打っているがその事を覚えているファンは少ない。

次は1999年に起こったこのシーンでしょう。

新庄剛志 敬遠球をサヨナラヒット!

1999年6月12日 同点の延長12回1死一、三塁。
伝説のプレーが生まれた時、マウンドにいたのはまたしても槙原投手だった…。
出典 youtu.be

●引退、そして今

キャンプ地を視察する槙原さん

キャンプ地を視察する槙原さん

レポーターを務める槙原さん

レポーターを務める槙原さん

槙原投手は2001年に引退。引退試合では、奇しくも同じ年に引退する事になった村田真一捕手に向けて投球。更に引退する斎藤投手との投手リレーを実現させます。

同じ日に引退することとなった村田選手、斎藤選手が巨人のコーチとして活躍する中、槙原投手は野球解説者(タレント)としてテレビで活躍しています。
槙原さんの事をかって巨人の「三本柱の1人」と呼ばれた大投手と知らない世代も増えてきました。
ですが、私達は覚えています、槙原投手の「あの試合」を。
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