1979年4月に新日本プロレスへ入門。1980年4月25日に後楽園ホールの斎藤弘幸戦でプロデビュー。1982年11月にメキシコ武者修行に旅立ち、ヒロ斎藤、平田淳二らと行動を共にする。1984年3月に帰国。しかしメキシコで体調を崩し、さらには高田ら後輩の台頭もあり、低迷。1984年9月、ジャパンプロレスへ合流して長州力らと全日本プロレスに参戦。1985年当時アジアタッグ王座を保有していたアニマル浜口が負傷欠場したため、寺西勇が代理パートナーとして保永を指名しアジアタッグ王者となる。10月14日、石川敬士&渕正信組を破り初防衛に成功したが、10月31日、石川敬士&マイティ井上組に敗れ王座転落。ジャパンプロレス崩壊後は新日本プロレスに出戻り、頭髪を金色に染めてヒロ斎藤・後藤達俊と共にブロンド・アウトローズを結成。後にスーパー・ストロング・マシーンを加えレイジング・スタッフと名を改める。保永自身はジュニアヘビー級のヒール選手としてライバルの獣神サンダー・ライガーらと激闘を繰り広げ、1991年にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアの前身であるトップ・オブ・ザ・スーパージュニアでライガーを破り優勝。IWGPジュニアヘビー級王座決定戦を兼ねており同王座に初戴冠。5月25日、ペガサス・キッドを相手に初防衛に成功。5月31日、ライガーを相手に2度目の防衛に成功するも、6月12日のリターン・マッチに敗れ王座転落。11月5日、野上彰を破り、IWGPジュニアヘビー級王座に返り咲く。1992年2月8日、ライガーに敗れ王座転落。1994年9月27日、ワイルド・ペガサスを破り、3度目の王座獲得。6度の防衛を重ねる長期政権を築き、さらに11月18日エル・イホ・デル・サントを破りUWA世界ウェルター級王座を獲得するなど、ライガーの負傷欠場や金本浩二、大谷晋二郎ら若手の台頭までの空白期の穴を埋めた。12月13日大谷に敗れUWA世界ウェルター級王座から転落。1995年2月19日、金本に敗れIWGPジュニアヘビー級王座からも転落、さらに9月22日、試合中に右足のアキレス腱を断裂し長期欠場。1996年5月23日、小山ゆうえんち大会で復帰。ライガー&サムライ&保永組vs金本&大谷&高岩組の6人タッグマッチにおいて、主に金本から執拗に攻撃を受けたサムライが激昂し、場外でも金本を追いかけ回すなど、試合が成立しなくなったことがあったがその際もヒートアップするサムライ、金本、大谷、高岩とそれを自身も激昂しながら止めようとするライガーを尻目に、保永は「止めろサムライ、止めろ」と一人冷静であったりと、ヒールともベビーフェイスともとれない立場となっていく。1998年4月30日、後楽園ホール大会で引退試合を行う。ライガーと対戦し敗れるも、ライガー戦直後に番外試合として6人タッグマッチを行い高岩竜一から勝利を飾る。引退後はレフェリーへ転向。レフェリーとしてのデビューは1998年5月16日、松戸市運動公園体育館で行われた中西学&小島聡組vs平田淳嗣&安田忠夫組戦。当初はぎこちないレフェリングで観客から声が上がったり、元レスラーであるにもかかわらず、試合中レスラーと衝突しただけでしばらく倒れているなどの場面が見受けられたが、元レスラーであることを活かし、相手選手がロープブレイクをしているのに、腕ひしぎ逆十字固めを放そうとしないケンドー・カ・シンに対しストンピングを連発して“保永コール”を巻き起こすなど、レフェリー保永昇男としてのエピソードを残す。以降はジュニア戦線を中心にレフェリーを行い、2003年、WJプロレスに移籍。WJの惨状を見かねて、佐々木健介に助言し、佐々木のWJ離脱、フリー転出にも関与したとされる。2004年WJ崩壊と共にリキプロへと移籍。レフェリーのほか、「あの人ほど怒らせたら怖い人はいなかった。喧嘩をしたくない相手だよね」、「普段は良き相談役だがプロレスに対する目は非常に厳しい。よしょっぱい試合をした若手が試合後に殴られていたよ。」と、かつての盟友、後藤達俊が自身のブログで語っているように、現在でも若手選手のコーチや相談役としてその手腕をいかんなく発揮している。リキプロの新日本プロレス合流後もレフェリーおよび道場管理者として残留。LOCK UPで裁いた。久が原道場閉鎖時は原状回復費用軽減のため、自らシャッターのペンキ塗りをするなど、最後まで若手らとともに尽くした。2012年2月19日、「SMASH.25」で特別レフェリー。2016年12月2日、大阪城東区民センターで行われる上井文彦プロデュース興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」でメインイベントを含む3試合のレフェリーをこなす。
6位 佐野直喜(巧真)
何でこの人がランクイン?なんて思う方がいるかも知れないけど、佐野さんは「IWGP」「SWS」「FMW」と三つの団体でジュニアの王者になった実力者よ!でもちょっとずつ時代がずれていたのかもしれないわね。人は彼を「悲劇の実力者」と呼ぶ人もいるの。でも、彼は「獣神ライガー」「リック・マーテル」のライバルとして戦っていたのは紛れもない「実力者」だからこそだと思うのよね!
苫小牧西高校卒業と同時に新日本プロレスに入門。1984年3月3日、後楽園ホールでの仲野信市戦でデビュー(当時のリングネームは佐野直喜)。1984年4月にメキシコ遠征を経験。帰国後の1989年8月10日に両国国技館で獣神サンダー・ライガーを破ってIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。ライガーの好敵手としてジュニア戦線の中心レスラーとなる。1990年にSWSに移籍。1991年12月にリック・マーテルとの初代王座決定戦でSWSジュニア王座を獲得。1992年12月20日にUWFインターナショナルに初参戦し、高田延彦と対戦した。1993年7月にUWFインターに移籍。1996年3月1日に佐野 友飛(さの ゆうひ)に改名した。1997年5月、キングダム旗揚げに参加。1998年3月に高田道場に入団。PRIDEにも出場した。1999年5月14日に佐野 なおきに改名し、格闘探偵団バトラーツに参戦。FMWジュニアヘビー級王座を獲得。2000年4月に第3回スーパーJカップに出場し準決勝まで勝ち進んだがCIMAに敗れた。2001年1月31日に「もっとプロレスを学びたい」と高田道場を退団し、2月11日に佐野 巧真に改名してプロレスリング・ノアに初参戦。その後、ノアに入団し、WAVEで三沢光晴、小川良成らと共闘。WAVE解散後は主に田上明、高山善廣、杉浦貴らとタッグを組むことが多い。獣神サンダー・ライガーが手の合う相手として佐野を激賞しており、UWFインターと新日本の対抗戦でもライガーは「佐野さんしか興味はない」とラブコールを送った。実際に両者は対抗戦の初戦でぶつかり、佐野が通常のプロレスに付き合って(場外へのダイブなどUWFではありえない技も繰り出し)勝利を収めた。試合後、ライガーは「もっと視野を広げて世界の佐野になってほしい」「UWFでのプロレス人生は偽りだと思う。試合には負けたが、あの人のプロレス人生には勝てたんじゃないか」と語った。佐野がノア入団後はヘビー級に移り、長らく接点はなかったが2009年1月の新日本・東京ドーム大会でタッグを組み、金本浩二、井上亘組に勝利した。
GHCタッグ王座決定トーナメントでは、UWF時代の後輩・高山とのタッグで参戦。決勝まで進んだが森嶋猛&モハメド・ヨネ組に敗れるもこのトーナメントで評価を上げた。高山は決勝の試合前インタビューで「佐野さんを本気にさせたら殺されるからね」と語っていた。2012年1月、契約更改によりフリーとなる。2014年3月、ノア有明コロシアム大会で佐野巧真デビュー30周年記念試合として獣神サンダー・ライガーと組み、高山善廣、平柳玄藩組と対戦した。2017年、青柳政司率いる真誠軍に入り、「魔世軍8号佐野巧真」のリングネームを名乗る。
5位 藤波辰巳(辰爾)
ヘビー級のイメージが強い「藤波辰巳」だけどやっぱりあたしは「ジュニアの藤波」が好きだったわ!「WWWFジュニアヘビー級王者」を52回も防衛したことを皆さん覚えているかしら?ヘビー級に転向してからのイメージが強いけど、あたしは敢えてジュニアにランクインしたの。ヘビー級のベスト10の時に皆さんに「藤波は?」と言われたんだけど、これが答えよ!ごめんなさいね!そして「マッチョドラゴン」最高!
1971年5月9日にデビュー。1972年、猪木が興した新日本プロレスに旗揚げより参加。3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ戦では第1試合に出場するもエル・フリオッソに敗退、3月16日の浜田広秋のデビュー戦で初勝利を挙げる。1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制し翌1975年6月、初の海外修行で木戸修と共に西ドイツへ遠征。その後アメリカへ渡り、フロリダのカール・ゴッチのもとで再修行。1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダをぶっつけ本番で放ったドラゴン・スープレックスで破りWWWFジュニアヘビー級王座を獲得し凱旋帰国。1981年10月にヘビー級転向のために返上するまで、通算52回に渡って同王座を防衛した。1978年3月3日の凱旋帰国第一戦では、マスクド・カナディアンを相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利。以降、ドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技とビルドアップされた肉体、そしてカール・ゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンも獲得。同時に、チャボ・ゲレロ、カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾などをライバルに、日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを定着させた。1980年2月1日にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得、ジュニアヘビー級の二冠王となった。名実ともにジュニアヘビー級の第一人者となった。1981年10月にヘビー級転向のためジュニアヘビー級王座を返上。海外遠征中の同年8月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。この年の10月、長州力との抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍との軍団抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ、1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチは同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。1985年5月24日 木村健吾とのタッグにてWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。12月12日のIWGPタッグリーグ優勝戦でタッグとはいえ師匠・猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。1987年4月、新日本プロレスは猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと藤波、長州、前田らニュー・リーダーの闘いで人気を博すも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで再び新日の人気は陰りを見せ始めた。1988年4月22日、猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼れた。5月8日、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。8月8日には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。以後、新日本プロレスのエースとなり、10月15日にアメリカのオレゴン州ポートランドにてザ・グラップラーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し、日米に渡る三冠王となった。1989年6月22日、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。1990年9月30日の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。同年12月26日、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者になった。翌1991年3月21日、東京ドームでリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれていた。1993年8月7日、両国国技館で馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。1994年4月4日、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。
4位 渕正信
やはり「全日」のジュニアと言えばこの人よね。決して派手ではなく「縁の下の力持ち」的な役割をずっとしてきたけど、「新日」の「藤原喜明」と並び「仕事人」としてなくてはならないレスラーの一人よね。若手時代からまるで「ベテラン」のような試合運びは、派手な技が多いジュニアにとっては貴重な存在だと思うわ!
1974年4月10日に全日本プロレスに入門。入門わずか12日で徳島県三好市での大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田とハル薗田と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。1980年に海外武者修行に出発、プエルトリコにて大仁田と合流し、1981年3月よりマサ・フチのリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、大仁田とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争い、同タイトルを通算3回獲得した。全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月にはチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。その後は、ジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。その一方で、三沢光晴率いる超世代軍とジャンボ鶴田率いる鶴田軍との抗争では鶴田軍についてメインイベントなどで戦う他、永源遙や大熊元司らと共に悪役商会の一員としてジャイアント馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えた。2000年に起こった大量離脱騒動で、中堅レスラーとして活躍していた渕はトップを張らざるを得なくなった。同年8月の新日本プロレスG1 CLIMAX大会において、渕はスーツ姿でリングに上がり「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいない!」と歴史に残るマイクアピールを行い、新日本プロレス現場責任者の長州力と固い握手を交わした。またこのとき現れた蝶野正洋が「ここはテメェの上がるリングじゃねぇんだオラ! とっとと降りろ!」と激怒して被っていた帽子を投げつけたが渕は余裕綽々の態度を崩さず、蝶野の帰り際には「蝶野、忘れ物だ」と帽子を放り返し、格負けしない振る舞いを見せ付けた。最後には「我々は逃げも隠れもしない! 蝶野、来るなら来い!」「新日本プロレスのファンの皆様、どうも大変お騒がせしました」としめくくったことから、会場からは異例の大「フッチー」コールが沸き起こった。渕が開発した低空ドロップキックの開発は多くのプロレスラー、特にジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を及ぼす。低空ドロップキックと無数の関節・ストレッチ技、ナックルパートや顔面キック、アトミック・ドロップの体勢からの急所攻撃など、テクニックとラフを兼ね備えた観客を強く刺激するファイトスタイルを確立してジュニアのみならず三沢らヘビー級とも堂々渡り合い、以後渕は「赤鬼」の異名を取った。後述の世界ジュニア最多防衛記録元保持者であったが故に、TAKAみちのくが14度目の防衛の対戦相手として決めていたのが渕であったり、前保持者近藤修司が執拗に渕との世界ジュニア戦を要求していたなど、全日本ジュニアでの影響力は依然衰えていないが、体力的な衰えは隠せず、菊タロー、荒谷と共にお笑いスタイルの第一試合で興行を暖める役に徹している。渕は和田京平レフェリーと共に、団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもあったが、2009年より全日本プロレスの所属レスラーとしての契約をしていない事と同社取締役を同年に辞任していた事が判明し、以降フリーランスの立場で全日本プロレスに参戦していた。契約的には問題が無いため、他団体への出場も可能で、実際にオファーも来ていたが、他団体の興行には出場せず、全日本プロレスの興行にのみ出場している。「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言もしているほど、全日本愛は誰にも負けない。2013年7月14日、全日本プロレス取締役相談役の就任を発表。2014年還暦記念特別試合を1月に3月には40周年特別記念試合を行った。
3位 グラン浜田
ジュニアのレジェンドと言えばこの「グラン浜田」よね。覆面レスラーばかりの日本のジュニアの中で本場の「ルチャドーレ」の日本人レスラーとして新しい風を「新日」のリングに吹かしたのは間違いなくこの人だったわ。噂では「初代タイガー」はこの人になると言う話もあったらしいわね。ぞうなったら、タイガー伝説はまた変わっていたわね~。
1972年、友人の関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入団志願に向かう際に付き添いで同行し、関川とともに柔道での実績を買われて浜田も入団することとなる。1972年3月6日の大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目ともいわれた。1975年にメキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコでは、LLIを中心に活動し、1976年にはLLI参戦の最優秀外国人にも選ばれている。メキシコでのプロレス修行は1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。この時期既にメキシコに家族を持っていた浜田は、1995年まで日本とメキシコを往復する生活となる。メキシコに行った当時はスペイン語が喋れない、水質が悪い等、日常生活でも苦労したが、努力によりトップに立ち、4階級制覇という偉業を達成した。この浜田の活躍により日本とメキシコのルートができ、日本にルチャリブレが輸入され、現在に至る。1980年代初頭、初代タイガーマスクの候補として名前が挙がりかけたが、新間寿によると「あいつはガニマタだからすぐにばれる」と実現には至らなかった。1984年4月に第一次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。1986年にジャパン女子プロレスのコーチに就任とともに、一時現役を引退する。1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生。その際に、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰する。1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。1992年11月27日にザ・グレート・サスケがみちのくプロレスを旗揚げした際に、浜田のみがユニバーサル・プロレスリングに残った。所属選手の大半がいなくなったユニバーサル・プロレスリングはその後FULLと改名したが自然消滅。浜田自身も1994年8月から古巣の新日本プロレスに登場するようになる。ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍の動きは、柔道経験者として似た経歴を持っていることから若手時代に目をかけてくれて、メキシコへの道を開いてくれた新間寿に対する義理を優先したものとされ、浜田自身、プロレス雑誌等でそのことを公言していた。1995年、みちのくプロレスに入団。みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグでの試合が実現している。また2000年11月25日には、娘の浜田文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの旦那のペンタゴン組とのタッグ戦も実現している。2001年にフリーとなり、再度新日本プロレスに登場。また大阪プロレスなど多くの団体にも出場するようになり、全日本プロレスではラブマシンズの一員として「リトル・ラブ・マシン」のリングネームで活動した。2006年娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場した。入場曲とコスチュームは天才バカボン。2007年には久々にメキシコマットに登場、ペンタゴンとの遺恨を復活させた。同時に文子とのタッグも結成。日本では、藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦している他、2008年にはアイスリボンにも不定期参戦。2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利した。2009年4月15日、大阪で新団体「MWF」を旗揚げ。2011年11月27日、DDT後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔、男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定した。2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。セミファイナルで華名とシングルマッチを行い、勝利。
2位 小林邦昭
「タイガーマスク」がブレイクしたのは「小林邦昭」がいたからと言う人は多いわよね。「虎ハンター」と言われ覆面はぎがクローズアップされるけど「フィッシャーマンズ・スープレックス」や「ソバット」は彼の代名詞だったわ!彼もタイガーのおかげでブレイクしたレスラーだったわよね。
そして当時、「ブルース・リー」を彼にだぶらせていた子供たちは意外と多かったかもしれないわよね。あたしもそのひとりだったわ!
そして当時、「ブルース・リー」を彼にだぶらせていた子供たちは意外と多かったかもしれないわよね。あたしもそのひとりだったわ!