長野県丸子実業高等学校を中退して1972年新日本プロレスに入門。1973年に栗栖正伸戦でプロデビュー。1980年メキシコに遠征。1982年にアメリカに渡り、「キッド・コビー」のリングネームで活躍した。1982年10月に帰国。パンタロンでマーシャルアーツスタイル(試合内容にマーシャルアーツスタイルを求められない時には、左半分が白、右半分が黒というユニークなショートタイツだった)で戦う姿は当時の日本のプロレス界では珍しかった。初代タイガーマスクと抗争劇を展開し、一気にブレイク、「虎ハンター」と呼ばれた。タイガーマスクのマスクを剥ぎにかかる悪役ファイトスタイルは、タイガーマスクの日本人ライバルとしてアンチ・ヒーローを求めるプロレスファンに支持された。しかし、私生活ではタイガー=佐山とはとても仲が良く「無名の自分をゴールデンタイムでスターに引き上げてくれた」と佐山には感謝の念を表明している。維新軍の前身である革命軍結成直前にニューヨークWWF地区へ長州と遠征し、マサ斎藤と合体。現地でのリングネームはチン・コビアシ(Chin Kobiashi)。その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州力・マサ斎藤・キラー・カーン・アニマル浜口・谷津嘉章・寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士ということで多くタッグを組む。1984年9月に維新軍団のメンバーらと新日本を離脱し「ジャパンプロレス」に参加し、全日本プロレスに参戦した。全日参戦中も二代目タイガーマスクを相手に虎ハンターとして活躍した。1985年NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を、1986年には世界ジュニアヘビー級王座を獲得。その後新日マットに出戻り、1987年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。1989年4月24日の新日本プロレス東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。ヘビー級へ転向すると、新日選手会と対立し越中詩郎らと「反選手会同盟(後の平成維震軍)」を結成。昭和時代の維新軍団と平成維震軍の2つの維新軍団に所属したのは小林のみである。負けたら坊主という「カベジェラ・コントラ・カベジェラ」を新日の正規軍の野上彰(現・AKIRA)と行ない敗戦、坊主頭になる。しかし勝者の野上はその対戦にいたく感銘を受けたということで後日自分も坊主になり平成維震軍入りする。
1999年に平成維震軍は解散、小林は2000年4月21日に行われた獣神サンダー・ライガー戦を最後に現役を引退した。現役末期、胃がんに見舞われて3度の手術を経験し、後年、この癌が引退の原因であったことを自ら明かしている。前田日明が佐山聡との対談内で語ったところによれば、今も抗ガン剤治療を続けているとのことである。腹部は70cmにも及ぶ大きな手術痕があり、ライガーとの引退試合においても、手術痕を隠すため、上半身はタンクトップを着用しての試合であった。試合後の引退セレモニーには佐山が花束を持って駆けつけ、三沢も祝電を寄せた。引退以降は主に裏方を担い、現在は新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務している。2006年7月27日に後楽園ホールで行われたWAR最終興行では、平成維震軍の旗持ち(セコンド)として久々に表舞台に顔を出した。維震軍の胴着を着用し、旗で相手選手を攻撃したりと、元気な姿を見せている。また、2007年9月21日には、リアルジャパンプロレスの後楽園大会で、佐山聡を相手に1試合限定の復帰戦を行った。これは「佐山選手の中の『野生の虎』を復活させるため」であった。その後は実行委員として参加していたが、「タイガーが覆面五番勝負をブチ上げて、オレの名前が出てこないことに憤慨した」として対戦を要求し2011年5月7日に試合が行われリングアウト負けとなった為、完全決着がつかず、9月23日「最後の一騎打ち」と銘打ってレジェンド・ザ・プロレスリングで再戦した。現在J SPORTSでの新日本プロレス中継の解説を担当している。
1位 越中詩郎
「全日」から「新日」に移籍してきたときに個人的に新日のジュニアヘビーに対応できるのかしら?と思っていたの。でも、蓋を開けてみたら「コブラ」や「高田」を盛り上げていたのは実は、彼の力が大きかったんじゃないかしら?「ヒップアタック」ばかりが目に付くけどやはり「パワーボム」よね!「IWGPジュニア」を三回も獲った実力はだてじゃないわ!
1978年7月に全日本プロレスに入門する。1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手にデビュー。大仁田厚の後を継いで、馬場の付き人を務めた。1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍した。同年7月に、馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送れ」と告げられたと同時に、三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱くようになっていき、1985年2月に坂口征二の誘いで、新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する。同年4月1日の東京スポーツに全日本退団を全日本に提出した辞表と共にスクープされ、そして同年7月に全日本プロレスを離脱し、新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。1986年2月6日、IWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。1987年3月20日、王座決定戦で武藤敬司とのコンビを組み、前田日明・高田伸彦組を破り、第4代IWGPタッグ王座を獲得する。1988年2月7日、第1回トップ・オブ・ザ・スーパージュニアで優勝した。獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。1992年7月31日、頭を剃り上げて反選手会同盟を結成し、一躍中堅からトップ戦線へ踊り出る。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決した。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者武藤敬司を破るという実績も挙げている。1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。1999年2月22日、平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在だったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。2004年2月、大森隆男とともに、大谷晋二郎・田中将斗組からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。ZERO1-MAXやキングスロードへも参戦。2007年には、『アメトーーク!』でケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。試合は敗北したものの、王者永田裕志に対しヒップアタックや侍ドライバー'84、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、平成維震軍当時からの大技を遺憾なく発揮した。一時期は天山広吉、真壁刀義らと組み、G・B・Hで活躍したものの、2007年8月に離脱、長州力、蝶野正洋らとともに「レジェンド」を結成した。2008年に後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明。2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では新日本の永田裕志、獣神サンダー・ライガーと組み、天龍源一郎、川田利明、TAJIRI組と対戦。15分18秒、TAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破り勝利。2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男、橋本大地を相手にタッグマッチを行い、「お前の父ちゃんにしこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。2012年6月13日、ノア主催三沢光晴メモリアルナイトのメインイベントに登場。森嶋猛とダブルヒップアタックを見せる等の活躍を見せたが、試合中に左足首脱臼骨折を負い長期欠場。2013年、35周年を迎える。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で1年ぶりに復帰した。
みなさんいかがだったかしら?「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」「覆面レスラー」に続き、自分の好きなレスラーは入っていたかしら?「プロレス総選挙」を細かく分けていくと意外な選手がランクインするかも知れないわ!あなたもやってみたらどうかしら?次は「外国人ジュニアヘビー級レスラー」編でお会いしたいわ!