【若虎四天王・藤田平】阪神一筋積み上げた安打は2064本!監督解任時には籠城
2019年3月14日 更新

【若虎四天王・藤田平】阪神一筋積み上げた安打は2064本!監督解任時には籠城

阪神一筋19年で名球会入りをした藤田平選手。江夏や田淵とともにリーグ優勝を目指し、ライバル巨人に肉薄するも優勝はできずに終わった選手生活。1995年中村監督の休養で監督代理に就任。1996年より正式に監督に就任。しかし成績不振の責任を取らされ解任も納得せずに籠城した藤田平とは。

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阪神一筋19年名球会入りもリーグ優勝経験なし

藤田平とは

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藤田平(ふじたたいら)
1947年10月19日
177cm 81kg
右投げ左打ち
ポジション 内野手

1965年春の甲子園で準優勝をし、卒業後は明治大学への進学が決まっていました。しかし阪神タイガースがドラフト2位で指名し、入団しましたが、その後同大と阪神の間では亀裂が生じた。

入団年の66年から試合に出場し、67年からは「牛若丸・吉田義男」をセカンドに追いやり、ショートで開幕からスタメン出場。打順は1、2番を打ちセリーグ最多の154本、30二塁打、10三塁打を記録しリーグを代表するショートになる。


順調にプロ生活を送ると70年代には「江夏・池田・谷村」とともに「若虎四天王」とファンからも慕われた。78年には208打席連続無三振というとんでもない記録も達成したが、この年より一塁での起用が増えショートでの華麗な守備を見る機会が減った。

79年では守備時に肉離れを起こし、左太ももの屈筋は正常の3分の1しか繋がっていなかった。この年藤田平はシーズンを棒に振った。
80年には故障と戦いながら復帰し、翌81年にはコーチ兼任となり打率.358で初の首位打者を獲得し、83年には2000本安打を達成と見事故障からの復活となる。
しかし故障には勝てず84年にはついにバットを置いた。阪神一筋19年のプロ生活を送り名球会入りを果たしたが、名球会入りの選手で優勝未経験のひとりとなった。

プロでの成績

プロ生活:19年
試合数:2010試合
通算打率:.286
打数:7217打数
安打数:2064安打
本塁打:207本
打点:802打点

主なタイトル
首位打者1回(1981年)
ベストナイン7回(1967、69、70、71、73、74、81年)
ダイヤモンドグラブ賞3回(1973、75、81年)
カムバック賞1回(1981年)

1973.10.11 巨人vs阪神 首位攻防戦 5/8

藤田平選手の首位打者への道

1981年よりコーチ兼任となった藤田平。4月22日対中日ドラコンズ戦で今シーズン初のスタメンで6番ファーストで出場。8月には江本の「ベンチがアホだから」事件も起き、中西監督は終盤に辞任。注目はベテラン藤田平が首位打者を獲得するかが注目になりました。

9月19日には藤田平の打率は.355で首位で、2位には大杉(ヤクルト)が打率.341、3位には篠塚(ジャイアンツ)が.340と肉薄していた。しかし藤田平は9月初旬に結膜炎となり、6試合打席に立っておらずこのまま規定打席に到達せず首位打者を獲得できない状況になった。

しかし9月27日のスワローズ戦で9月3日以来の先発出場で打席数とヒット数を重ね熾烈な戦いとなった。藤田平が必要な規定打席数は403。
藤田平は107試合の出場でピッタリ403の打席数で打率は高打率の.358で終了。見事初の首位打者を獲得した。しかも2位のジャイアンツ篠塚の打率は.357とわずか1厘差であった。余談だが篠塚はその後2回の首位打者を獲得するが.357を超えることはなかった。

首位打者 藤田平

1984年藤田平は現役を引退した。名球会に入るほどの大選手だったが、ライバル「ジャイアンツ」が優勝を重ねる時代でもあり、現役生活19年間で一度もビールかけを味わうこともなかった。
皮肉なもので翌年1985年に阪神タイガースはリーグ優勝を果たし、日本シリーズもライオンズを相手に4勝2敗で日本一になった。
藤田平がもう1年現役を続けることができればと思うと寂しい結果である。

藤田平の黒歴史。レジェンドを軽く扱ったのが阪神球団

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阪神一筋で2000本安打以上打った唯一の選手である藤田平であったが、監督時代に黒歴史がある。もともと阪神はフロントと監督、または監督とコーチが衝突するのがお家騒動の球団だ。

そんな中1995年に中村勝監督からの要請で二軍監督に就任。解説者を経て11年ぶりにユニフォームに袖を通した。しかしここまで6、6、2、4、4位の成績の中村勝監督が95年も6位でオールスター後に途中休養という形の辞任で、監督代行に二軍監督の藤田平が就任。指導者としてまだ勉強中だったが、いきなり一軍の監督に。

新庄選手との確執などもあり、そのまま6位でシーズン終了。
新庄選手は「野球に対するセンスがない」と発言し引退すると宣言。しかし阪神は正式に藤田平を監督に就任させ、新庄はその後引退を撤回した。

波乱の1986年のシーズンに突入。
藤田平は阪神再建のために熱血指導を行うも、新庄をはじめ中心選手やフロントに批判を買う事になる。桧山を4番に抜擢したり、オリックスの平塚はいい選手だから獲ってくれとフロントに進言するなど確かな目は持っていたのだが、5月に借金は15になり、9月13日から休養を取ることになる。

95年に監督代行の53試合で監督として適任か不適任かを判別できないフロントにも責任があるし、96年を任せたなら最後まで指揮させて解任すればいいはず、それが117試合終了時点でのお家騒動。

そして事件は9月12日に阪神球団事務所で起こった。

事務所に呼ばれた藤田平は三好球団社長にクビを言い渡された。これを不服とした藤田平は久万オーナーに会いたいと頼むも応じてもらえず、藤田平は承諾をせずに事務所に籠城。
球団は夕方から「辞任に関する記者会見」を行うことを各マスコミに通達していた。簡単にことが進むと安易に考えていたのだ。もちろん記者会見などできるはずもなく中止となる。
藤田平は次の日に承諾して辞任となった。

フロントのイエスマンであった中村勝監督の方がフロントは使いやすい。しかし藤田平は強い阪神にしたい思いで、あの選手が欲しいと進言するも、もう選手は十分いるだろう。この選手でいい成績を上げろとフロントに言われるというわけだ。藤田平は名選手だが、名監督にはなれないタイプなのかも知れない。

阪神一筋で名球会に入会した選手を軽く扱っては藤田平も浮かばれないだろう。
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