大洋ホエールズの安打製造機として首位打者を獲得した長崎啓二
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長崎啓二の獲得したタイトル・主な表彰と記録
首位打者:1回 (1982年)
ベストナイン:1回 (1982年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1985年)
サイクルヒット:1978年5月20日、対阪神タイガース10回戦(横浜スタジアム) ※史上30人目
オールスターゲーム出場:1回 (1982年)
お釣り無しサヨナラ満塁本塁打:1982年5月23日、対中日ドラゴンズ戦、スコアは10対9 ※史上4人目
ベストナイン:1回 (1982年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1985年)
サイクルヒット:1978年5月20日、対阪神タイガース10回戦(横浜スタジアム) ※史上30人目
オールスターゲーム出場:1回 (1982年)
お釣り無しサヨナラ満塁本塁打:1982年5月23日、対中日ドラゴンズ戦、スコアは10対9 ※史上4人目
長崎啓二のプレースタイルはどんなの?
力まないフォームでバットを構え、ボールを体の近くまで引きつけて、腰の回転で打つバッティングフォームは、どんな変化球にも対応でき、安打を量産できた。
本塁打などの長距離が打てるバッターではないが、三振も少ない選球眼もある選手だと言えるだろう。
本塁打などの長距離が打てるバッターではないが、三振も少ない選球眼もある選手だと言えるだろう。
長崎啓二のプロに入るまでの活躍
北陽高校在学中の1966年、全国高等学校野球選手権大会(第48回)に1年生ながら外野のレギュラーとして出場した。大会では初戦(対福島商業高校)に勝利するも、2回戦で桐生高校(群馬)に1-10で敗れている。3年生時の1968年にはプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから8位指名を受けた。長崎自身も阪神ファンであったが、一般の職に就くことを望んでいた母親の反対を受け、やむなく入団を拒否
高校卒業後、法政大学経営学部へ進学した。同大学の野球部では入学早々主軸に座り、東京六大学リーグ史上初の2シーズン連続首位打者を獲得するなど、法政初のリーグ4連覇に貢献。東京六大学リーグでは通算79試合に出場し、273打数93安打・打率.341・8本塁打・53打点を記録した。同リーグのベストナインにも3回、選出されている。1972年秋、ドラフト1位で大洋ホエールズに指名され、プロ入り。
主力として期待されながらの長崎啓二の活躍は?
入団した大洋ホエールズでは、主力選手として期待され、和製ミッキー・マントルと称され周囲を沸かせた。
入団当初の長崎と言えば、ぶんぶんとバットを振り回し、三振も多い選手でした。それではだめと奮起した長崎は、当時の打撃コーチ大下弘と二人三脚で指導を受け、アベレージヒッターへの転身に成功したのである。
1982年には、中日ドラゴンズの田尾安志と首位打者争いを繰り広げ、大洋ホエールズの球団をあげての田尾対策で、見事、長崎が首位打者を獲るのであった。
入団当初の長崎と言えば、ぶんぶんとバットを振り回し、三振も多い選手でした。それではだめと奮起した長崎は、当時の打撃コーチ大下弘と二人三脚で指導を受け、アベレージヒッターへの転身に成功したのである。
1982年には、中日ドラゴンズの田尾安志と首位打者争いを繰り広げ、大洋ホエールズの球団をあげての田尾対策で、見事、長崎が首位打者を獲るのであった。
1983年6月4日の阪神戦(横浜スタジアム)で、岡田彰布の左中間へのフライを追って中堅手の加藤博一と衝突。この時、長崎の顔面と加藤の顔面がぶつかったので、『プロ野球珍プレー好プレー大賞』では「空中キッス」と呼ばれ珍プレー大賞を受賞した。なお、受賞したのは加藤だけである。1985年、池内豊投手との交換トレードで阪神タイガース(以下、阪神)へ移籍。
1985.7.9 阪神vsヤクルト11回戦 8/9 - YouTube
宮本賢治 平田勝男 木戸克彦 長崎慶一
via youtu.be
8月1日の中日戦には、前日の試合でランディ・バースが自打球を当て骨折したため、一塁手としてスタメン出場を果たす。しかし、8年振りの一塁守備にぎこちなさを感じた首脳陣は、翌日から真弓明信を一塁に回した。そして、同年の日本シリーズ(対西武ライオンズ)第6戦では勝利を決定付ける満塁本塁打を放ち、チーム初のシリーズ優勝に貢献している。
長崎の逆風突くグランドスラムで日本一! - YouTube
1985年日本シリーズ第6戦、初回二死満塁... 六番に入った長崎啓二、強風をものともしない一発! タイガース悲願の日本一へ一気に突き進む!
via youtu.be
引退後の長崎啓二は・・・。
阪神では主に代打で活躍し、1987年オフに現役引退。現役引退については裏話があり、長崎本人によると別の選手が戦力外となる予定だったが、その選手が戦力外を固辞したため、代わりに長崎が戦力外通告を受けたというのが真相だそうである[4]。その後はよみうりテレビで野球解説者として活躍し[4]、川藤幸三がコーチとして阪神に復帰していた1991~92年には、読売テレビの解説者として、『ズームイン!朝!』の『プロ野球いれコミ情報』に出演していた。1993年、阪神の一軍打撃コーチに就任
その後は、野球人としてではなく、実業家としても成功。焼肉店を東京都新橋で開店。荒川区議選にも出馬、見事当選し、政治家としての顔も。
現在は、レイアンドエムという会社の代表取締役を務めており、東日本大震災の復興支援などを行っている。
現在は、レイアンドエムという会社の代表取締役を務めており、東日本大震災の復興支援などを行っている。
身長178cm、体重80kg
左投げ左打ち
ポジション:外野手
本名は長崎慶一と言い、1981年から1987年までは、長崎 啓二(ながさき けいじ)と改名していた。
大洋ホエールズと阪神タイガースに所属し、無駄のないスイングで安打を量産していた名選手である。