80年代紅白歌合戦珍場面
大晦日と言えば、数年前は格闘技中継戦争があったり、ダウンタウンの絶対に笑ってはいけないシリーズも見ものですが、やはり紅白!と言う人も多いのでは!?紅白だけでも視聴率が50%近くいくとは、やはり日本人はなんだかんだ言ってテレビ好きですよね。大イベントで生なだけに歴史に残る珍場面も!80年代代の紅白珍場面を集めてみました。
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1981年 北島三郎「紙吹雪多すぎ」
1993年で紅白引退した御大北島三郎が、50回に及ぶ紅白出場で、最も頭にきたのがコレ!派手な演出にするあまり、前が見えないほどの紙吹雪が。
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北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年(昭和11年)10月4日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主。
『函館の女』に始まる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲がある。
一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれているが、原 譲二(はら じょうじ)のペンネームでも知られ、自身の楽曲の作詞・作曲ばかりでなく自身の舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ、他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を精力的に行っている。
作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役を務める。
1982年 桑田佳祐「三波春夫事件」
サザンオールスターズとして1982年に出場した桑田佳祐。登場するや三波春夫のモノマネを披露。更に、「とにかく、受信料は払いましょう!」「裏番組(を見たい場合)はビデオで見ましょう!」と発言し大問題に。のちにNHKにわび状を書かされる羽目になった桑田は紅白と絶縁宣言をするほどに。
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桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、日本の男性ミュージシャン、慈善活動家[3]。神奈川県茅ヶ崎市出身。所属事務所はアミューズ、所属レコード会社はSPEEDSTAR RECORDS内のタイシタレーベル。鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。愛称は、ケイちゃん、すけちゃん、桑っちょなどである。
シンガーソングライターであり、またロックバンド・サザンオールスターズのリーダーで、楽曲の作詞・作曲・ボーカル・ギターを担当している[1]。妻は同バンドのメンバーの原由子。
1984年 生方恵一アナ「ミソラ事件」
年内での引退を宣言していた都はるみが大トリを務めたため、歌唱後も大盛り上がり。アンコールに応える方で「好きになった人」を歌い、都は感極まって声にならなくなるほど。出演者全員が彼女を囲んで励ましながらの大合唱しているときに、司会の生方恵一アナが「もっともっとたくさんの拍手を、ミソラ・・・」。紅白史に残る言い間違えとなってしまった。
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生方 恵一(うぶかた けいいち、1933年3月25日 - 2014年12月15日)は、日本のフリーアナウンサー。元NHKアナウンサー。1984年、『第35回NHK紅白歌合戦』での「ミソラ発言」で広く知られている。群馬県前橋市出身。生方 めぐみ(うぶかた めぐみ)という筆名で作詞を手掛けた曲がいくつかある。
1984年 NHK「下世話すぎる演出」
当時の芸能界は秘密の交際ラッシュ。中森明菜と近藤真彦、松田聖子と郷ひろみが交際していた。そのため。中森明菜が「十戒」を歌っているときに。中森がダンサーに捕らわれてしまう。それをマッチが助けて、「ケジメなさい」を歌う。その後、中森&近藤、松田&郷でチークダンスを踊るなどゲスすぎる演出に、話題性を超えて批判が集まった。
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1985年 吉川晃司「ギターを燃やす」
今では渋い俳優も好評な吉川晃司だが、1985年での紅白ではまさに大暴れ!登場するなりシャンパンを口に含んで盛大にまき散らすパフォーマンス、更には曲が終わり次の紅組歌手の歌が始まっていても、ギターを燃やすと言う暴挙まで起こしたのだ。