歌手になる夢を決める。
高校を卒業した徳永さんは、旅行関係の専門学校に入学。
しかし、2か月で退学。
歌手になる夢を決めます。
時を同じくして、またお父さんの転勤で、ついに昭和54年、東京に行くことになります。
しかし、2か月で退学。
歌手になる夢を決めます。
時を同じくして、またお父さんの転勤で、ついに昭和54年、東京に行くことになります。
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レコード会社にひとりで営業に。
上京した徳永さんは、自分の作品をおさめたカセットテープを手に、レコード会社に自ら一人で「デモテープ」を渡し、聴いてもらうように頼み込みます。
しかし、歌手を目指す人は山ほどいる中で、営業努力はなかなか実を結びません。
なんとかきっかけを作りたいと、こんな番組に登場します。
しかし、歌手を目指す人は山ほどいる中で、営業努力はなかなか実を結びません。
なんとかきっかけを作りたいと、こんな番組に登場します。
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動画で見ましたが、既に歌手の徳永さんの原型が出来上がっています。
しかし、決勝まで行きながら、その後のオファーはまったくなかったそうです。
これには驚きです。
イケメンで美声。当時の徳永さんは素人さんなわけですから、これでここまで歌うのは、
やはり天賦の才能があるのでしょう。
その後、芸能人養成学校に通いましたが、遊んで暮らしてしまい、きっかけはつかめないまま。
だんだん、歌手への情熱が冷めかけます。
しかし、その卒業時に友人から「お互い、有名になったらまた会おう」という言葉に衝撃を受け、自分の甘さに気づき、曲づくりをはじめます。
そこで出来たのが、「Rainy Blue」でした。
オファーに恵まれなかった徳永さんは、次の手を打ちます。
しかし、決勝まで行きながら、その後のオファーはまったくなかったそうです。
これには驚きです。
イケメンで美声。当時の徳永さんは素人さんなわけですから、これでここまで歌うのは、
やはり天賦の才能があるのでしょう。
その後、芸能人養成学校に通いましたが、遊んで暮らしてしまい、きっかけはつかめないまま。
だんだん、歌手への情熱が冷めかけます。
しかし、その卒業時に友人から「お互い、有名になったらまた会おう」という言葉に衝撃を受け、自分の甘さに気づき、曲づくりをはじめます。
そこで出来たのが、「Rainy Blue」でした。
オファーに恵まれなかった徳永さんは、次の手を打ちます。
策士!
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徳永さんは、音楽業界の業界人がよく利用する喫茶店で、アルバイトを始めます。
そこで取ったウルトラC級の自分の売り込み方がすごいです。
そこで取ったウルトラC級の自分の売り込み方がすごいです。
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音楽業界の業界人が喫茶店を利用するのは、ほとんどが仕事の打ち合わせです。
つまり、会計の時に、領収証を請求するわけです。
そこでまず、会社の名前がわかる。
音楽会社だとわかると、徳永さんは領収証と一緒に、なんとデモテープを渡したのです。
すごいアイデアだと思います。
つまり、会計の時に、領収証を請求するわけです。
そこでまず、会社の名前がわかる。
音楽会社だとわかると、徳永さんは領収証と一緒に、なんとデモテープを渡したのです。
すごいアイデアだと思います。
ついにきっかけをつかむ。
この策が功を奏し、徳永さんに声がかかります。
「Rainy Blue」をひっさげ、「第2回マリンブルー音楽祭グランプリ」を受賞します。
「Rainy Blue」をひっさげ、「第2回マリンブルー音楽祭グランプリ」を受賞します。
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1984年8月 - 鎌倉の材木座海岸でアマチュアの登竜門、マリンブルー音楽祭を立ち上げ、徳永英明、山本英美を発掘する。
上野 義美さんという音楽プロデューサーに見いだされたようです。
24歳での遅咲きデビュー。
遅咲きデビューを果たした徳永さんは、「なめられてなるものか」と、初めからスターとしてふるまおうとします。
しかし、それが周りのスタッフの猛反発をかい、朝5時まで延々と六本木のポリネシアンパブで説教をされたそうです。
なかでも一番怒ったのが、プロデューサーの鈴木キサブローさんです。
しかし、それが周りのスタッフの猛反発をかい、朝5時まで延々と六本木のポリネシアンパブで説教をされたそうです。
なかでも一番怒ったのが、プロデューサーの鈴木キサブローさんです。
鈴木 キサブロー (すずき きさぶろう、本名:鈴木 喜三郎 (読みは同じ)、1953年2月14日 - ) は、日本の作曲家、ギタリスト。