炎のストッパー!【津田恒美】あなたの三振劇は忘れない。
2016年11月25日 更新

炎のストッパー!【津田恒美】あなたの三振劇は忘れない。

32歳のという若さでこの世を去った、広島東洋カープが誇る「炎のストッパー」津田恒美。常に真っ直ぐにこだわり、ことごとくスラッガーのバットを粉砕してきた名投手。記録よりも広島ファンというより、野球ファンの記憶に残る選手です。

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みんなの心に生き続ける津田恒美と言う人物

津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と涙ながらに訴えた。広島ナインはこれに奮起し、この年チームは夏場まで独走していた中日ドラゴンズを逆転でかわし、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。この時、津田とダブルストッパーを組むことになっていた大野豊を始めとする投手陣は、リーグの投手部門の主要タイトルを独占するという大活躍を見せている(最優秀救援投手: 大野、最多勝利・最優秀防御率・沢村賞: 佐々岡真司、最高勝率: 北別府学、最多奪三振: 川口和久)。
チームメイトであった森脇浩司とは無二の親友で、1987年のシーズン中に森脇が南海ホークスへトレードされた時は、夫人に対して「お前か浩司のどっちかをとれって言われたら、オレは浩司をとる」と言い、夫人を呆れさせたほどだったが、晩年、済生会福岡総合病院に転院して闘病生活を送っていた津田及び周辺の諸々の世話を積極的に行っていたのも森脇だった。津田が一時回復を見せた時、森脇は「オレの年俸を半額にしてでも、お前を現役復帰させられるように球団(福岡ダイエーホークス)に掛け合ってやる」と言ったとされ[10]、退院後には居宅となる借家も手配した[11]。命日にも夫人の要請で入院先に駆けつけたが、死に目には会えなかった[12]。没年と同年の1993年に森脇が結婚し披露宴を挙げた際には、亡き津田のために席を用意し、津田のグラスにビールを注いでキャンドルサービスを行い、同席した金石昭人、清川栄治ら友人の涙を誘った。津田が再びマウンドに立つことはなかったが、津田の一人息子の大毅は、森脇らの計らいにより福岡ドームのマウンドに始球式で立つことになった。
逝去した当日、東京ドームでオールスターゲーム第1戦が行われることになっていた。逝去の知らせは開幕のセレモニー直前、両軍関係者に届いたといい[3]、津田の訃報は試合中継の途中にアナウンスされると共に、地元広島のテレビ各局で津田と親交のあったアナウンサーは、涙ながらに訃報を伝えていた。山本浩二監督を始めとする広島の選手は、全員喪服ではなくユニフォーム姿で津田の葬儀に参列した。通夜の営まれた翌日の第2戦(グリーンスタジアム神戸)では9回裏に大野豊が登板。バックを守る野村謙二郎をして「津田さんの気持ちが乗り移ったような投球だった。あんな大野さんは見たことがなかった」ほどの鬼気迫る投球で、二者連続三振を含むパーフェクトリリーフでオールスター初セーブを挙げている[2]。
こうした野球人生は多くのファンに強い印象を残した。2000年には、晃代夫人の著書「最後のストライク」が岸谷五朗主演でドラマ化された。また、鹿児島市の居酒屋「のん呑ん亭」の店の壁にある、津田をテーマとした詩が、FMラジオ番組で紹介されて話題になったこともある。ある詩人が即興で書いたものだが、ラジオでの紹介をきっかけに存在が広まり、後には津田の家族や関係者が来店するようになったという。

Amazon.co.jp: 最後のストライク―津田恒美と生きた2年3カ月 (幻冬舎文庫): 津田 晃代: 本

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記録でいえば、最優秀救援投手を1度獲っただけである。

しかし、実質10年の野球人生の間に、オールスターも5度出場し、野球殿堂入りも果たすほど、それだけ、ファンに愛された投手であったことが垣間見れます。

津田の心は、マツダスタジアムでカープの後輩たちに受け継がれていることでしょう。
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