炎のストッパー!【津田恒美】あなたの三振劇は忘れない。
2016年11月25日 更新

炎のストッパー!【津田恒美】あなたの三振劇は忘れない。

32歳のという若さでこの世を去った、広島東洋カープが誇る「炎のストッパー」津田恒美。常に真っ直ぐにこだわり、ことごとくスラッガーのバットを粉砕してきた名投手。記録よりも広島ファンというより、野球ファンの記憶に残る選手です。

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常に全力投球で勝負に挑んできた男、津田恒美

津田恒美(つだ つねみ)

津田恒美(つだ つねみ)

1960年8月1日生まれ
身長181cm、体重79kg
右投げ右打ち
ポジション:投手

広島東洋カープの投手王国を築けたのは、このストッパーがいたからでしょう。記録は決して飛び抜けた選手ではありませんが、広島ファンは、津田恒美の名と14の数字は決して忘れないでしょう。

津田恒美の獲得タイトル・主な表彰と記録

最優秀救援投手:1回(1989年)

新人王(1982年)
カムバック賞:1回(1986年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(1986年)
ファイアマン賞:1回(1989年)
野球殿堂入り(競技者表彰:2012年)

オールスターゲーム出場:5回(1983年、1986年 - 1989年)

津田恒美のプレースタイル

炎のストッパー!剛速球のクローザー

炎のストッパー!剛速球のクローザー

今でいうクローザー。抑えの切り札として、広島東洋カープの投手王国を支えてきた津田恒美。記録よりもすさまじいほど、みんなの記憶に残る投手である。
弱気は最大の敵と自身に問いかけながら投げる津田恒美。靭帯の手術後に投げる1986年の球種は90%以上が直球と、変化球は全くといっていいほど投げない投手だった。

球種もスライダー、フォーク、カーブとあるが、こんなにも、ストレートで押し切るピッチャーは他にはいないでしょう。
特に特徴なのが、ストレートもホップするストレートである。
常にストレートで強きな性格をイメージするが、アマチュア時代からメンタル面が弱く、高校時代には、監督から精神安定剤と言われて、メリケン粉を信じて愛飲していたほど。

津田の座右の銘、『弱気は最大の敵』、『一球入魂』と情熱的な言葉があるが、この言葉は強いからではなく、弱いからこそ、自らに向かって、気合を入れていたのである。

津田恒美のプロ入りまでの軌跡

山口県の都濃郡南陽町の山間部、和田地区の出身で地元の高校、山口県立南陽工業高等学校で野球部に入部、すぐに1年生からエースとして活躍していた津田恒美。1978年の第50回選抜高等学校野球大会に出場してベスト8となり、その年の夏の高等学校野球選手権大会では、2回戦に駒を進める活躍を見せた。
南陽高校時代の津田恒美

南陽高校時代の津田恒美

高校卒業後は、山口県の防府市に本拠地を置く今の協和発酵キリンに就職。その後、1981年に広島東洋カープにドラフト1位で指名されて、周囲の期待を背負いながら投手王国カープに入団する。

怪我に悩まされたプロ生活

入団当初から古葉竹識監督も大きな期待を寄せていた1年目の1982年に先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝いた。しかし2年目の後半戦以降は、ルーズショルダーや中指の血行障害などに悩まされ、登板機会が激減する。
その後、血行障害を治すため、世界初となる中指の靭帯を摘出する手術を受ける。1985年に「恒美」から「恒実」へと改名。1986年に抑え投手として復活し、前半戦を防御率0点台で折り返す。後半戦からは調子を落としたものの、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献、シーズン終了後にカムバック賞を獲得した。1987年にも防御率1点台を残す活躍を見せたが、1988年は肩痛などが遠因してリリーフ失敗を繰り返すなど9敗を喫し、『サヨナラの津田』とも揶揄された。しかし、翌1989年に防御率1.63、12勝5敗28セーブを挙げる活躍で最優秀救援投手、ファイアマン賞に輝き、再び復活を遂げる。闘志を剥き出し、ピーク時153km/h(6月28日にマーク)の剛速球と縦横の鋭いカーブを武器に相手打者に敢然と立ち向かう姿は、『炎のストッパー』と形容された。
1990年、右肩や右膝の故障の為に僅か4試合の登板に終わると、同年のシーズン終了後から頭痛をはじめとする身体の変調を訴えるようになる。1991年、前年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎え、4月14日に無理を押して広島市民球場(当時)で行われた読売ジャイアンツ戦で、1点リードの8回表に先発した北別府学の後を受けて登板するが、無死二塁・三塁のピンチを招き、原辰徳に同点適時打を打たれるなど大乱調のためわずか9球で降板し、敗戦投手となる。これが自身の生涯最後の登板となった。

津田恒美 生涯最後の登板 - YouTube

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涙ながらの野球人生にピリオドを打つ津田・・・。

1991年4月の最後の登板の翌日、今まで軽く考えていた頭痛も治らないことも相まって、広島大学病院に検査入院しました。検査結果は、悪性の脳腫瘍。それも、手術の出来ない位置にあるため摘出を断念せざるを得ません。
本人は告知されておりましたが、球団は周りの混乱を防ぐため、水頭症のために引退と発表。球団は準支配下選手として、津田の復帰を待ちわびたが、本人の希望もあり、11月6日付で現役を引退しました。
その後、奇跡的に一時の回復を見せましたが、1992年6月ごろに再び悪化し、1993年7月20日福岡の総合病院にて32歳の短い人生まで閉じることになりました。

今もなお、カープの一員として闘い続ける津田恒美

初代の広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」の文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(津田プレート)が設置されていた。同球場に設置された個人の記念碑は、連続試合出場記録を樹立した衣笠祥雄に次いで2人目。後日、大野豊ら広島の選手は、試合に出場する時必ずこのプレートに触れていくというエピソードが「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」内で紹介された。現在、このプレートは2009年に開場した広島の新本拠地であるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移設されている。
野球体育博物館(現・野球殿堂博物館)は2012年1月12日、津田が広島時代の同僚である北別府学と共に野球殿堂入り(競技者表彰・プレーヤー表彰)したことを発表した。競技者表彰・プレーヤー表彰の被投票資格(引退後20年以内)最終年、当選必要数をわずか1票上回る237票を集めての選出だった[4]。殿堂入り表彰は津田の命日である7月20日のオールスターゲーム第1戦(京セラドーム大阪)の試合前に行われた[5]。
2012年秋に周南市が津田の功績を称え、同市野球場の愛称を公募。12月14日に球場の愛称が「津田恒実メモリアルスタジアム」と決定した[6]。
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