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ジャン・ピエール・パパン
ジャン=ピエール・パパン(Jean-Pierre Papin、1963年11月5日 - )は、フランス、ブローニュ=シュル=メール出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。
ポジションはFW(センターフォワード)。
クラブ
「高性能爆撃機」の異名を持ち、1985-86シーズン、クラブ・ブルージュにて活躍が認められると、翌シーズンからオランピック・マルセイユに移籍。
オランピック・マルセイユ在籍時1986-87シーズンから1991-92シーズンまで5シーズン連続でフランスリーグ得点王を獲得。
チャンピオンズカップ準優勝(90-91)チャンピオンズリーグ優勝(92-93)、に貢献。
チャンピオンズリーグ得点王も1988-1989シーズンから1991-92に渡り3シーズン連続で獲得した。
1992年ACミランに移籍するとミランの2度のスクデット、イタリアスーパーカップ、ビッグイヤーにも貢献した。
1991年にはバロンドールも獲得します。まさに全盛期でした。
その勢いはミランでも発揮され、歴代のミランを代表するFWの一人となりました。
その勢いはミランでも発揮され、歴代のミランを代表するFWの一人となりました。
所属クラブ
1979年~1981年、1984年~1985年 ヴァランシエンヌFC
1981年~1984年 INF(国立サッカー学院)ビシー
1985年~1986年 クラブ・ブルージュ
1986年~1992年 オリンピック・マルセイユ
1992年~1994年 ACミラン
1994年~1996年 バイエルン・ミュンヘン
1996年~1998年 FCジロンダン・ボルドー
1998年~1999年 EAギャンガン
1981年~1984年 INF(国立サッカー学院)ビシー
1985年~1986年 クラブ・ブルージュ
1986年~1992年 オリンピック・マルセイユ
1992年~1994年 ACミラン
1994年~1996年 バイエルン・ミュンヘン
1996年~1998年 FCジロンダン・ボルドー
1998年~1999年 EAギャンガン
代表
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代表では54試合に出場し、30ゴールを挙げ、ここでも抜群の決定力を誇っている。
しかし、フランス代表の低迷期と選手としてのピークが重なり、大舞台にはあまり縁が無い。
86年のW杯では、ベルギーでの活躍が認められメンバーに入る。
レギュラーとしての扱いではなかったが、限られた出場時間で結果を残し、2ゴールを挙げている。
90年のW杯はヨーロッパ予選で敗退し、出場を逃している。
94年W杯のヨーロッパ予選でも、カントナと共に攻撃陣をリード、エースとしての役割を果たす。
しかし、予選絶好調であったスウェーデンにグループ1位を奪われ、グループ2位の座を賭け、ブルガリアと対戦する。
そして、あの「パリの悲劇」により、まさかの本大会出場を逃した。
その後、クラブでも低迷し、元々ジャケ監督と折り合いが悪かったということもあり、代表に召集されることはなかった。
選手としての特徴
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パパンは、小柄ですが一瞬のスピードの速さ、ダッシュ力、鮮やかで思い切りの良いシュート、時にアクロバチックにゴールを量産するストライカーでした。右サイドに流れて、右足で逆サイドのサイドネットにシュートを蹴りこむのも得意でした。
日本代表との対戦
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試合は、序盤からフランス代表の強さだけが目立つことになる。
チームとしての完成度にも大きな開きがあったことから、中盤の構成力で劣った日本代表は、終始フランス代表に試合を支配されてしまう。
DF陣も、当時の世界最強とも言えるカントナやパパンを中心としたフランス攻撃陣の前になす術なく、失点を重ねていってしまう。
後半10分までに4失点――。緊張の糸が切れて足が止まり、自陣に張り付けられた日本代表メンバーは、まさにサンドバック状態となってしまう。
【サッカー列伝】マンUのキングこと「エリック・カントナ」 プレーと自由すぎる発言、行動で注目された選手でした - Middle Edge(ミドルエッジ)
フランス代表でパパンともチームメイトだった問題児・エリック・カントナの特集です。