テレ朝のサッカー中継を熱くする松木さん
テレビ朝日のサッカー中継及び日本代表の解説者としてお馴染みの松木安太郎。
「なんなんすか、これ?」
「ふざけたロスタイムですね~」
「ファールだ!絶対ファールだよ!」
「レッドカード3枚くらい必要だ、これ!」
「パクチソンが4人いる!」
「原口はまだ動けますよ。 名前が元気だからね!」
など…絶叫・誇張表現・オヤジギャグを巧みに織り交ぜた解説という名の応援は、もはや、名人芸の域。スポーツバーなどで観戦していると、どんなにサムライブルーがしょっぱい試合を繰り広げていても、彼のこうした発言一つでどっと笑いが起こったりするから、大したものです。
もちろん、彼はただのサッカー好きな酔っ払いではありません。れっきとしたサッカー経験者、それも日本代表入りするほどの実力者で、引退後はJリーグの監督も歴任しているのです。今回は、そんな松木安太郎の今となってはあまり想像できない現役時代・監督時代について、振り返っていきたいと思います。
「なんなんすか、これ?」
「ふざけたロスタイムですね~」
「ファールだ!絶対ファールだよ!」
「レッドカード3枚くらい必要だ、これ!」
「パクチソンが4人いる!」
「原口はまだ動けますよ。 名前が元気だからね!」
など…絶叫・誇張表現・オヤジギャグを巧みに織り交ぜた解説という名の応援は、もはや、名人芸の域。スポーツバーなどで観戦していると、どんなにサムライブルーがしょっぱい試合を繰り広げていても、彼のこうした発言一つでどっと笑いが起こったりするから、大したものです。
もちろん、彼はただのサッカー好きな酔っ払いではありません。れっきとしたサッカー経験者、それも日本代表入りするほどの実力者で、引退後はJリーグの監督も歴任しているのです。今回は、そんな松木安太郎の今となってはあまり想像できない現役時代・監督時代について、振り返っていきたいと思います。
松木安太郎 爆笑タッチ集【解説まとめ完全版】
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弱冠16歳で日本リーグ1部のプレイヤーに
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松木さんの選手時代におけるキャリアは、読売サッカークラブに始まり、読売サッカークラブに終わります。小学校4年で読売クラブに入部すると、弱冠16歳の若さで、トップチームのメンバーに選抜され、以降12年間、日本リーグ1部のプレイヤーとして活躍。
ポジションは、主にDFを担当し、通算269試合出場で9得点をマーク。日本サッカーリーグ優勝3回(1983年、1984年、1986年)、天皇杯優勝3回(1984年、1986年、1987年)、JSLカップ優勝1回(1985年)にも貢献しています。
当時の彼は、足元の技術よりも、戦う意欲を前面に押し出すガッツ溢れるプレースタイルを標榜。この現役時代の姿勢が、後の解説業における熱さに通じているのであり、もしかすると、「デュエル」に重きをおいていたハリルジャパンにもっともハマっていたのは、松木さんだったのかも知れません。
ポジションは、主にDFを担当し、通算269試合出場で9得点をマーク。日本サッカーリーグ優勝3回(1983年、1984年、1986年)、天皇杯優勝3回(1984年、1986年、1987年)、JSLカップ優勝1回(1985年)にも貢献しています。
当時の彼は、足元の技術よりも、戦う意欲を前面に押し出すガッツ溢れるプレースタイルを標榜。この現役時代の姿勢が、後の解説業における熱さに通じているのであり、もしかすると、「デュエル」に重きをおいていたハリルジャパンにもっともハマっていたのは、松木さんだったのかも知れません。
キミは読売サッカークラブを知っているか?④
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日本代表では、主にサイドバックとして活躍していた
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選手として確かな実績を残している松木さんは、当然、日本代表にも選出されています。初めてA代表入りしたのは、1984年5月のジャパンカップ(キリンカップサッカーの前身)における中国戦。それからは主に右サイドバックのポジションで呼ばれるようになり、1986 FIFAワールドカップの予選にも出場しています。
「よし、いけぇ内田!!この野郎!」
「こういう状況でもサボらない長友は偉いですね。われわれは解説をサボってしまうんですけど(笑)」
こんなふうに、サイドバックの選手を時に鼓舞し、時にベタ褒めする松木さんですが、もしかすると、現役時代の自分の姿を重ねて、余計に感情移入しているのかも知れません。ロシアW杯でも、おそらく当確であろう、長友や酒井宏樹へのツンとデレに注目したいところです。
「よし、いけぇ内田!!この野郎!」
「こういう状況でもサボらない長友は偉いですね。われわれは解説をサボってしまうんですけど(笑)」
こんなふうに、サイドバックの選手を時に鼓舞し、時にベタ褒めする松木さんですが、もしかすると、現役時代の自分の姿を重ねて、余計に感情移入しているのかも知れません。ロシアW杯でも、おそらく当確であろう、長友や酒井宏樹へのツンとデレに注目したいところです。
ヴェルディの監督時代はヨーロッパスタイルを目指し、ラモスや都並から反発を食らう
1990年に現役を引退すると、1993年からは開幕したばかりのJリーグで、プロ化した古巣・読売もといヴェルディ川崎の監督に、35歳という若さで就任。
経験不足を補うために、松木さんは彼を読売クラブのトップチームに引き上げた恩師であり、日本サッカーの父と呼ばれた名伯楽デットマール・クラマーの愛弟子だった、オランダ人指揮官フランツ・ファン・バルコムをヘッドコーチとして招聘。
そんなバルコムの影響もあってか、松木さんは、イェーネ・ハンセン、ヘニー・マイヤーといったオランダの有力選手を次々と獲得し、チームの強化、並びに、ヨーロッパ流の組織的スタイルに古巣を生まれ変わらせようと試みます。
経験不足を補うために、松木さんは彼を読売クラブのトップチームに引き上げた恩師であり、日本サッカーの父と呼ばれた名伯楽デットマール・クラマーの愛弟子だった、オランダ人指揮官フランツ・ファン・バルコムをヘッドコーチとして招聘。
そんなバルコムの影響もあってか、松木さんは、イェーネ・ハンセン、ヘニー・マイヤーといったオランダの有力選手を次々と獲得し、チームの強化、並びに、ヨーロッパ流の組織的スタイルに古巣を生まれ変わらせようと試みます。
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ところが、既存のやり方にこだわる、ラモス瑠偉・都並敏史・戸塚哲也といった古参の選手から激しい反発に遭い、チームは半ば分裂状態に。
特に、チームの絶対的支柱で、かつて松木とは親友の間柄だったラモスはストライキを起こすなどの強硬策を取り、当時のメディアからは「内乱」と騒ぎ立てられました。今も昔も、自分のやり方を通したい監督と、中途半端に発言権のある古株選手の諍いというのは、繰り返されるものなようです。
特に、チームの絶対的支柱で、かつて松木とは親友の間柄だったラモスはストライキを起こすなどの強硬策を取り、当時のメディアからは「内乱」と騒ぎ立てられました。今も昔も、自分のやり方を通したい監督と、中途半端に発言権のある古株選手の諍いというのは、繰り返されるものなようです。
しかし、こんなガタガタな状態でも、ネルシーニョに監督の座を譲り渡すまでの、1993年~1994年の2年間で2度のリーグ優勝・ナビスコカップ優勝を果たし、ヴェルディの黄金期を支えました。
こうした実績を買われ、1998年にはセレッソ大阪、2001年には、当時東京に移転したばかりだった東京ヴェルディ1969の指揮を執ったものの、セレッソはリーグ9位に終わり、東京ヴェルディ時代に至っては、成績不振で途中解任される始末。ヴェルディでの実績が松木さんの手腕というよりも、単にチームが強かっただけということが明らかになってしまい、以降は監督業から足を洗い、タレント解説者としての活動に精を出し、今に至るというわけです。
こうした実績を買われ、1998年にはセレッソ大阪、2001年には、当時東京に移転したばかりだった東京ヴェルディ1969の指揮を執ったものの、セレッソはリーグ9位に終わり、東京ヴェルディ時代に至っては、成績不振で途中解任される始末。ヴェルディでの実績が松木さんの手腕というよりも、単にチームが強かっただけということが明らかになってしまい、以降は監督業から足を洗い、タレント解説者としての活動に精を出し、今に至るというわけです。
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(こじへい)
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