1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーとなる。
1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利。
1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利。
フリー~WJプロレス
1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦。
1999年12月大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成。
1999年12月大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成。
新日本プロレス~プロレスリング・ノア~ハッスル
2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。
三沢光晴や仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの、当時は馬場元子が認めなかったとされる。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕が出来、参戦が実現した。
7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では元付き人の小川良成と対戦し勝利を収めた。 他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮﨑豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦。
三沢光晴や仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの、当時は馬場元子が認めなかったとされる。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕が出来、参戦が実現した。
7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では元付き人の小川良成と対戦し勝利を収めた。 他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮﨑豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦。
まさに全てのプロレスラーを知り尽くした男、天龍
サンダーストーム 天龍源一郎のテーマ - YouTube
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強い強い鶴田を破って三冠王座戴冠!
1989.6.5 全日本 鶴龍対決5 3冠戦 ジャンボ鶴田対天龍源一郎① - YouTube
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1989.6.5 全日本 鶴龍対決5 3冠戦 ジャンボ鶴田対天龍源一郎② - YouTube
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1989.6.5 全日本 鶴龍対決5 3冠戦 ジャンボ鶴田対天龍源一郎③ - YouTube
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天龍が放つ強烈で多彩な持ち技の数々
53歳
独特のタイミングで落とす変形の垂直落下式ブレーンバスター。
初期はジャックハマーのように体を浴びせる別物の技であったが、徐々に現在の形へと変化。
パワーボムを使用しなくなってからは、こちらがフィニッシュ・ホールドとして使用されている。53歳は開発当時の年齢。
初期はジャックハマーのように体を浴びせる別物の技であったが、徐々に現在の形へと変化。
パワーボムを使用しなくなってからは、こちらがフィニッシュ・ホールドとして使用されている。53歳は開発当時の年齢。
天龍稲妻落とし
天龍が風雲登り龍として最初にブレイクした際の決め技。ジャイアント馬場から直々に指導を受けている。