大仁田厚はFMWを率いた邪道プロレスラーのままでよかったんです。
2016年11月25日 更新

大仁田厚はFMWを率いた邪道プロレスラーのままでよかったんです。

「涙のカリスマ」大仁田厚。誰もやりたがらなかった電流爆破、肉体が凶器のプロレスにあって、大仁田は「邪道」と呼ばれました。その類まれなるカリスマで多くの信者を産み出した大仁田。以降は政治家、タレントとなりましたが、やっぱり彼は涙のカリスマ、邪道プロレスラーです。

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大仁田厚

邪道プロレス、涙のカリスマといえば大仁田厚でした

大仁田厚は「涙のカリスマ」

大仁田厚は「涙のカリスマ」

大仁田 厚(1957年10月25日 - )は、日本の男性プロレスラー、政治家、タレント、俳優としても活躍。
長崎県長崎市出身。元参議院議員。身長181cm、体重79kg(全盛時は105kg)。

長州力vs大仁田厚 横浜アリーナ有刺鉄線電流爆破デスマッチ - YouTube

2000年7月30日に横浜アリーナで行われたノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ。 辻アナと真鍋アナ編。

Masahiro Chono vs. Atsushi Onita (No Rope Explosive Barbed Wire Deathmatch) - YouTube

#TheArtOfHardcore #FreeMatchForYou FMW BJW NJPW CZW IWA Mid-South VOW FREEDOMS

プロレスラー大仁田厚

全日本プロレス「新弟子第一号」

ジャイアント馬場に愛された

ジャイアント馬場に愛された

1973年、日本一周徒歩旅行を断念後、ジャイアント馬場に憧れ、全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し、1974年4月14日の後楽園ホール大会における佐藤昭雄戦でデビュー。
1981年に海外修業に出発、プエルトリコにてマサ・フチこと渕正信と合流後にアメリカ本土に乗り込み、ミスター・オーニタ(Mr. Onita)のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。

トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、渕とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争った。

遠征中の1982年3月7日、ノースカロライナ州シャーロットにて、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権に挑戦、セコンドに付いたテリー・ファンクの目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた。王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、サングレ・チカナに王座を奪われるものの、すぐに奪回し帰国。

全日ジュニアで「炎の稲妻」と呼ばれる活躍ぶり

ジュニア戦線で活躍するも怪我の後は低迷

ジュニア戦線で活躍するも怪我の後は低迷

凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあったタイガーマスクに対抗し、ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍。
佐山タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから炎の稲妻と呼ばれ人気を博し、馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎に続く全日第4の男として注目される。

1983年4月20日、東京体育館でのヘクター・ゲレロとの試合終了後、リングを飛び降りる着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場。
一度は復帰するも、ウルトラセブン、マイティ井上、渕正信、マジック・ドラゴンらの台頭によるジュニア戦線の充実についていけず、馬場夫妻の勧告により1984年12月2日引退を賭けてマイティ井上と闘うも敗れ、翌1985年1月3日に後楽園ホールで引退式。

「邪道プロレス」へ

全財産5万円でFMW設立

全財産5万円でFMW設立

その後、タレントに転向し、小松政夫に弟子入り。『11PM』等にレギュラー出演するが、この時はタレント活動は長続きせずに辞めてしまう。
その後、事業家として一時成功するが、すぐ没落して借金まみれになり、土木作業員や配達員をして糊口を凌いだ後にジャパン女子プロレスでコーチに就任。

1989年に開催された「格闘技の祭典」にて、空手家の青柳政司と対戦した後、手元にあった全財産5万円を元手に自らの団体FMWを旗揚げ。10月6日に名古屋市露橋スポーツセンターにて旗揚げ戦を行う(対青柳戦)。
1990年8月4日に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も川崎球場や西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」、「デスマッチの教祖」と異名を取る一方、1991年には日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にも取り上げられ知名度を上げる。

また、ザ・シークやタイガー・ジェット・シン、テリー・ファンクら往年の名選手を招聘し、幾多の抗争を展開。

FMW 大仁田ドキュメント PART1 - YouTube

FMW 大仁田ドキュメント PART2 - YouTube

「邪道プロレス」を突き進む大仁田厚

涙のカリスマ、身体の傷は1000針を突破

涙のカリスマ、身体の傷は1000針を突破

1994年11月1日には新高輪プリンスホテルで、縫合個所「1000針突破記念パーティー」を開催。
1994年5月5日の川崎球場大会のメインイベントで天龍源一郎と対戦するも敗北し、一年後の引退を宣言。翌1995年5月5日に、川崎球場で弟子のハヤブサと戦い、2度目の引退。引退試合まで一年間をかけて「引退記念ツアー」を銘打ち、大仁田の試合が見納めになると思ったファンを集めた。

一時は俳優業に専念していたが、ミスター・ポーゴの「引退試合で、ライバルだった大仁田とタッグを組みたい」という願いを叶えるといったアングルで、この一試合限定という建前で1996年12月11日のFMW駒沢体育館大会で2度目の復帰戦を行い、そのままなし崩しにリングに上がり続けたが、荒井昌一社長、ハヤブサ、冬木弘道らとの対立が深まり、1998年11月20日の横浜文化体育館大会を最後に、FMWを追放される。

新日本プロレスとの交流戦

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