メンバーの経歴
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氷室の芸名の由来は、漫画「ワル」の主人公から。初期は「狂介」という芸名だったが、京都の占い師に「『狂』という文字は絶対に使ってはいけません」と言われ、現在の「京介」に改名した。改名後売れたため、以後もう占いをしないと決めたらしい。
松井の『恒松』の芸名は、本名の「恒」を活かしてフリクションの『恒松正敏』をヒントにしたもの。
高橋は読み方は同じだが、本名は『信』という漢字表記のため、厳密には芸名になる(1985年頃までは「BAD FEELING」の作詞者クレジットにもあるように、漢字の方の名前を名乗っていたこともあった)。
布袋は、メンバー4人の中で唯一本名を名乗っている。
解散
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1986年12月16日の長野市民会館でのライブ後、ホテルのバーにてメンバー全員が解散について話し合った[24]。最初に解散を提案したのは布袋だった[12][6][10]。それまでも「1位を取ったら解散」とメンバー間で話してはいたが、あくまでも冗談の範囲内だった。しかしながら『JUST A HERO』がメンバー全員にとって音楽的に満足のいく作品となり、『BEAT EMOTION』が初登場1位を記録し商業的にも成功を収めたことから、この時に初めて現実的な内容での話し合いが持たれた。
バンド側からの正式な解散理由は未だに発表されていない。各メンバーが、色々な状況が折り重なった結果だといったニュアンスの発言をしている。
『“LAST GIGS”』は、ライブ・アルバムとしては異例とも言える150万枚のセールスを記録している。
豆情報
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1・群馬時代に布袋が組んでいたバンド「BLUE FILM」のボーカリストは、後にBOØWYボウイのマネージャーとなった土屋浩である。
2・ライヴハウス時代、佐賀県で3万人規模のコンサートがあるという話を聞き出演のために駆けつけたところ、それは村の夏祭りでギャラは村で収穫された野菜や酒だった。