なんであんなにテレビに出てた?
1995年、地下鉄サリン事件が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、日本へ帰国する。
サリン事件後、教団の広報責任者として青山吉伸や村井秀夫らと共に、連日朝から晩までテレビのワイドショーやニュース番組やラジオに出演し、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論していた。
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また記者会見の場で、容疑が不明瞭ないわゆる別件逮捕が横行した際は、怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら警察、報道機関を批難した。
逮捕容疑の一覧を記したフリップを公表すると「あのね、私はあまりごちゃごちゃ言いたくないんですよ!これ見たら分かるでしょ!馬鹿らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げた。
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後日、そこで、数々の疑惑事件は創価学会や米軍、自衛隊を初めとする国家権力の陰謀であり、サリン被害を受けているのはオウムだとの見解を示し続けた
この時に見せたパフォーマンスから、「ああ言えばこう言う」を捩った「ああ言えば上祐」という流行語が生まれ、「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場するなど、一躍話題の人となった。
上祐史浩氏について
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大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった[3]。大学時代より超常現象チベット仏教教団活動などに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原彰晃の空中浮揚写真記事をきっかけに、1986年に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となるオウム神仙の会に入会する。
大学院を出た後宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し、恋人の都沢和子と共に出家信者となった。出家番号は13。入会後は都沢と別れ都沢は麻原の愛人となる。
麻原の側近と目される教団幹部であったが、一連のオウム真理教事件では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の共謀や実行の場にいなかったことや、炭疽菌テロを目論んだ亀戸異臭事件でオウムの手法では、危険な炭疽菌が生成されずに被害が出なかったため、不能犯とされたことなどで、重要犯罪事件で起訴はされなかった。
こんな人も一緒にテレビに出ていた
村井 秀夫(むらい ひでお、1958年12月5日 - 1995年4月24日[1])は、オウム真理教幹部。大阪府出身。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー