【不惑の大砲】門田博光の輝かしいキャリアを振り返る【40歳で44本塁打】
2021年5月27日 更新

【不惑の大砲】門田博光の輝かしいキャリアを振り返る【40歳で44本塁打】

ホームランにこだわりを持つ男「門田博光」。長距離砲のイメージが強い門田ですが、もともとは走攻守を兼ね備えた中距離ヒッターでした。名だたる名投手との真っ向勝負はいまも記憶に残っています。

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門田博光とは

門田博光

門田博光

門田博光(1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手)。
現役時代は南海・ダイエー、オリックスで主に右翼手、指名打者として活躍した。40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。
通算本塁打数・通算打点数共に歴代3位。

門田博光 月間16ホームラン!! - YouTube

門田博光のキャリア

高校野球、社会人野球を経て南海へ入団

高校野球、社会人野球を経て南海へ入団

天理高校では、四番打者、中堅手として、外山義明投手を擁し、1965年夏の県予選決勝に進出。紀和大会決勝で県和歌山商を3-1で降し甲子園に出場。1回戦で小山健二投手(日本コロムビア)を擁する丸子実に9回に逆転され1-3で敗退。
卒業後は外山とともに社会人野球チームクラレ岡山に進む。1966年から都市対抗野球大会に4年連続出場。1968年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。翌1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。
走攻守揃った中距離ヒッターから、怪我を機に長距離砲へ

走攻守揃った中距離ヒッターから、怪我を機に長距離砲へ

1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目の1971年にレギュラー定着。打率.300、31本塁打、120打点を記録して打点王。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造。
プロ入り2年目の1971年から野村監督解任の年である1977年までの7年のうち5年で打率三割をマーク。1973年には打率.310、18本塁打の成績で南海リーグ優勝に貢献。
野村監督時代は主に三番を打ち、成績的には中距離打者としての性格が濃かったが、野村からは「オレの前にランナーで出てくれさえすればいい。それがお前の仕事。ホームランなど狙わなくていい」とはっきり言われ、大振りすると怒られたという。野村解任によりその束縛から解放され、長距離打者としての道を歩み始める。四番に座り、それまで使うことを許されなかった重いバット(1000g)を使い始めた。
1980年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌1981年には44本塁打で初の本塁打王に輝いた。1981年7月には、月間16本塁打のプロ野球新記録(当時)をマークしている。
不惑の大砲へ

不惑の大砲へ

1983年も40本塁打で本塁打王。1987年8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。
1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。40歳で44本塁打は日本初の快挙であり、この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。
40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。
その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。この記録は、2010年42歳を迎える楽天の山崎武司が更新している。
1989年に南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。
引退試合は野茂英雄と対戦

引退試合は野茂英雄と対戦

オリックスでは、「強いチームというのは勝つときも負けるときも淡白でさらっとしている」と感じたという。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。
1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と古巣への愛着から、オリックスを自由契約となる形で古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の1992年夏、記者に「オレは老衰」と漏らし、このシーズン限りで現役を引退。
引退試合は平和台球場でのプロ野球最終公式戦、3番DHで先発し1回裏近鉄の野茂英雄投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし3球三振だった。

平和台球場最終戦とダイエー門田現役最後の打席 - YouTube

門田博光の打撃スタイル

2番打者失格

2番打者失格

入団2年目のシーズン前に、当時ヘッドコーチを務めていたブレイザーの「打率3割を打てる理想的な2番打者を育てたい」との希望により、ブレイザーが投手役になって1週間ぶっ続けでバントの練習をさせられた。
しかし、野球を始めてからバントの練習などしたこともなかった門田は、一向にうまくできるようにはならず、ついにブレイザーは「オー、ノー、ギブアップ」と降参した。
1番は広瀬叔功、2番は失格で、「あいつはヒットならよく打つ。それならオレ(4番)の前を打たせておけ」(野村)ということで3番を打つことになったという。
ホームランへのこだわり

ホームランへのこだわり

1971年に31本塁打、120打点で打点王になった頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったとのエピソードが残されている。
大阪球場のオープン戦でのことで、自説を撤回しない門田に二人とも呆れたという。また、挙句の果てに門田に「監督はずるい。王さんと口裏を合わせている」と言われ、野村は「勝手にせえ」となってしまったとも言っている。
門田はあくまで長打にこだわった打撃を押し通し、「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。オールスター戦では、当時東映フライヤーズの大杉勝男が説得役に担ぎ出されたという。
当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日凡退したあとベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。
それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。
フルスイングへのこだわりについて、門田は次のように語っている。「ろくでもない解説者が、あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど、と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らんやつが言うこと。確かに思い切って振ってるうちは30本は超えん。でも、それが軽く振ってるように見えるのは、何万スイング、何十万スイングしているから、そう見えるわけよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」「ワシは朝のコケコッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通のやつは出来んから、おれは『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さな体で500本も打てんじゃろ」
2006年に野球殿堂入りした際のインタビューでも、「(上体を)ネジってネジってバチン!というスイングをする選手が最近は少ない。アウトコースを軽くミートして逆方向に打つホームランではロマンがない」と持論を展開している。
バットに関しては「速い球を重たいバットで打てるなら、遅い球でも対応できる」という考えを持っていた。実際に門田が使用していたバットは重さ1000gの特大バットであった。

ライバル投手との対決

村田兆治

村田兆治

村田兆治は門田から生涯14本の本塁打を打たれているが、門田について次のように語っている。
「あれは昭和48年(1973年)だったか、マサカリが完成してすぐだった。絶対に打たれるはずのないひざ元へのスライダーを門田さんに打たれた。失投ではなくて、完ぺきな球を本塁打にする打者。投げていて緊張感があった。あれから、門田さんにスライダーを投げたことはない。それぐらい悔しかった。」
山田久志

山田久志

門田が「永遠のライバル」と称した山田久志は門田から28本塁打を浴びている。
山田は門田について、「本物のプロのバッターだった。真っすぐを狙っているところに、真っすぐを投げた。駆け引きが一切ない。インハイとアウトローにすべて直球を投じた。いい勝負ができた。」と証言している。
東尾修

東尾修

東尾修は、危ない球をすれすれに投げて、その反対球で打者をかわしていく投手であったが、ある試合の第1打席で、その危ない球が門田に当たった。
その報復に、第3打席にピッチャー返しを東尾の太ももにお見舞いしたという。(門田)「トンビ、大丈夫か」(東尾)「何を言うてますか。バットは全部僕の方に向いとるじゃないですか」(門田)「わかっとったか」(東尾)「わかっていましたよ」(門田)「お前、1打席目にオレに当てたやないか。これでおあいこや」(東尾)「そうですね」、とのやり取りがあり、以後、東尾は一切そのような投球をしてこなくなったという。
なお、東尾の死球への報復としてのピッチャー返しについては落合博満にも同様のエピソードがある。

野茂英雄への洗礼

大物新人投手には燃えた門田

大物新人投手には燃えた門田

門田がターゲットを定め、燃えたのが新人との対決であった。
1989年秋のドラフトで、野茂英雄が近鉄バファローズに入団することが決まったときには、「野茂からの第1号は俺が打つ」と決め、翌シーズンへ向け、ゴルフ場で走り込むなど準備を進め、1990年4月18日の日生球場での近鉄-オリックス1回戦で、その目標を実現させている。
野茂の初登板は4月10日の西武戦であったが、門田は「(西武の打者の)誰も打つなよ」と念じ続け、願い通じ被本塁打0のまま迎えた18日も、4番に座る門田は「松永、福良、ブーマーホームラン打つなよ…絶対打つなよ…」と念じていたという。
小宮山悟に対しては、「『大学もプロも変わらない』みたいなコメントを読んだ瞬間、じゃあプロの打球を見せましょう。で、ピッチャーライナーを一発見舞ったんや」と述べている。
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