【ドクターK】日本人メジャーの道を切り拓いた野茂英雄の足跡を辿る - Middle Edge(ミドルエッジ)
ドラフト8球団指名、トルネード投法、日本人メジャーで初めての成功。輝かしい栄光に包まれた野茂英雄。でもその野球人生は決して平坦ではありませんでした。メジャー先駆者の足跡を追います。
ホームランにこだわりを持つ男「門田博光」。長距離砲のイメージが強い門田ですが、もともとは走攻守を兼ね備えた中距離ヒッターでした。名だたる名投手との真っ向勝負はいまも記憶に残っています。
🦅 nan-hai 2022/3/29 17:25
「門田と香川どっちがどっちねん
混乱してまうわ」です
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秋季練習のあと、中百舌鳥の合宿で、野村に「君たちの思っていることをオレに話してほしい」といわれ、手が挙げたのが、門田と江本孟紀、それに西岡三四郎であった。
そこで、言葉の行き違いがあり、「もう練習にこなくてもいい」と言われたので「ハイ、わかりました」といって練習に参加しなくなり、「門田、野村監督と対立」などとスポーツ紙に書かれて騒がれたという。ただし、門田本人は自著で「そんなに大げさなものではなかった」と述べている。
野村は自著で、南海監督時代に手こずった「江本、江夏、門田の3人を「南海の三悪人」と呼び、「選手として一流になれても指導者にはなれない」と語っている。野村が解説者時代の「週刊朝日」の連載でも、「最後の野球バカ門田博光」と題し、「何かをいえばそれと反対のことをする男である」と評している。
しかし一方で、野村は、門田の実力を大いに認めている。門田を見い出し三番に抜擢したのは野村であり、「ものすごい頑張り屋」とも評している。門田も従うべきところでは従っていたといわれ、また、「『二塁の桜井とライトの門田は10年間不動のままでいける』と野村に言ってもらい、信頼が厚くて助かった」とも述べている。
野村が3000試合出場という記念すべき記録を立てた試合(1980年8月1日 西武-南海戦)で、門田は「こういう時に野村さんに恩返しをしたい」といってきたという。何をしてくれるのかと思っていたら、キャッチャーマスクをかぶった野村の目の前で特大のホームランを2打席連続で打った。
3打席目に立った門田に「もうわかったから、ええ加減にしとけや」とボヤくと、「二塁打ですませてくれた」のだという。