1915年誕生
桑野 通子(くわの みちこ) 昭和初期・戦前の大スター
1920年誕生
原 節子(はらせつこ) 20世紀の映画スター・女優の最高峰のひとり
原 節子(はら せつこ)
原 節子(はら せつこ、1920年(大正9年)6月17日 - )は、日本の元女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。本名は会田 昌江(あいだ まさえ)。
1963年に女優業を引退した。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。
(出典:Wikipedia)
写真は、1935年 原節子 当時14歳
1963年に女優業を引退した。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。
(出典:Wikipedia)
写真は、1935年 原節子 当時14歳
山口淑子(やまぐち よしこ)
山口 淑子(やまぐち よしこ)
山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年2月12日 - 2014年9月7日)は、日本の歌手、女優、政治家。戸籍名:大鷹淑子(旧姓:山口)。戦前の中国(中華民國)と満州國、日本、そして戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン、Lee Hsiang Lan)、戦後の米国ではShirley Yamaguchiの名で映画、歌などで活躍した。
(出典:Wikipedia)
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via jubitrend.com
1924年誕生
高峰 秀子(たかみね ひでこ)
高峰 秀子(たかみね ひでこ)
高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年3月27日 - 2010年12月28日)は、日本の女優、歌手、エッセイスト。本名は松山 秀子(まつやま ひでこ)、旧姓は平山(ひらやま)。愛称はデコちゃん。
戦前・戦後を通じて日本映画界で活躍した女優の一人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較された。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。
(出典:Wikipedia)
戦前・戦後を通じて日本映画界で活躍した女優の一人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較された。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。
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京マチ子(きょう マチこ) 大映看板女優
京 マチ子
京 マチ子(きょう マチこ、1924年(大正13年)3月25日 - )は、日本の女優である。本名、矢野 元子(やの もとこ)。大阪府大阪市出身。大阪松竹歌劇団(OSK)の娘役スターを経て、1949年(昭和24年)に大映に入社、女優デビューした。後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として大活躍した。溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年) 、 黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれる。1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台に活動の場を移す。80歳を過ぎても2006年頃まで舞台などで活動を続けていた。
(出典:Wikipedia)
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1928年誕生
角 梨枝子(すみ りえこ)
角 梨枝子(すみ りえこ)
角 梨枝子(すみ りえこ、1928年3月7日 - 2005年10月12日)は、日本の女優。
1947年大阪音楽大学進学。翌1948年、初代・ミスヒロシマに選定され東宝からスカウトされて映画界入り。豊田四郎監督の『エデンの海』の主役に抜擢されるが東宝争議により製作中止された。
同郷の杉村春子と親交があり、演技力をつけるため文学座の研究生として1年在籍。1949年、プロデューサー藤本真澄の藤本プロ初の専属女優として迎えられ映画『妻と女記者』(新東宝)でデビューし『山の彼方に』等に出演。日本人離れした抜群のプロポーションとエキゾチックな美貌で注目を集め、主演スターとなった。
1951年松竹に引き抜かれ『恋文裁判』等に主演。1953年に主演した松竹第2回カラー映画『夏子の冒険』(三島由紀夫原作)は年間トップ4に入る大ヒットになり高い人気を得た。1954年には東宝『山の音』(成瀬巳喜男監督)に出演。また、林芙美子原作の名作を映画化した『放浪記』に主演。原作のアナーキーな迫力は無かったが、ほのぼのとした明るさで代表作とした。同年、新東宝に移籍し、『慈悲心鳥』に主演。
1955年には大映に移籍し脇に回り60年代半ばまで活躍。1962年、吉村公三郎監督が広島の原爆禍を若尾文子主演で撮った『その夜は忘れない』は鬼気迫る好助演だった。その後、テレビドラマ『ザ・ガードマン』、『キイハンター』などに出演したが、次第に仕事から遠ざかり、女優業を引退していた。
1947年大阪音楽大学進学。翌1948年、初代・ミスヒロシマに選定され東宝からスカウトされて映画界入り。豊田四郎監督の『エデンの海』の主役に抜擢されるが東宝争議により製作中止された。
同郷の杉村春子と親交があり、演技力をつけるため文学座の研究生として1年在籍。1949年、プロデューサー藤本真澄の藤本プロ初の専属女優として迎えられ映画『妻と女記者』(新東宝)でデビューし『山の彼方に』等に出演。日本人離れした抜群のプロポーションとエキゾチックな美貌で注目を集め、主演スターとなった。
1951年松竹に引き抜かれ『恋文裁判』等に主演。1953年に主演した松竹第2回カラー映画『夏子の冒険』(三島由紀夫原作)は年間トップ4に入る大ヒットになり高い人気を得た。1954年には東宝『山の音』(成瀬巳喜男監督)に出演。また、林芙美子原作の名作を映画化した『放浪記』に主演。原作のアナーキーな迫力は無かったが、ほのぼのとした明るさで代表作とした。同年、新東宝に移籍し、『慈悲心鳥』に主演。
1955年には大映に移籍し脇に回り60年代半ばまで活躍。1962年、吉村公三郎監督が広島の原爆禍を若尾文子主演で撮った『その夜は忘れない』は鬼気迫る好助演だった。その後、テレビドラマ『ザ・ガードマン』、『キイハンター』などに出演したが、次第に仕事から遠ざかり、女優業を引退していた。
1929年誕生
若山 セツ子(わかやま せつこ) 東宝の看板女優
若山 セツ子(わかやま せつこ)
若山 セツ子(わかやま せつこ、1929年6月7日 - 1985年5月9日)は日本の女優。東京府東京市中目黒出身。本名は坂爪セツ子。映画監督の谷口千吉は元夫。初期の芸名は若山セツコ。実践高等女学校卒業。
1946年、東宝ニューフェイス第1期生として東宝へ入社。デビュー作は『四つの恋の物語』(1947年)。
1949年の『青い山脈』で丸メガネの女学生・和子、『次郎長三国志』シリーズの次郎長の女房・お蝶を演じた。戦後第一期の東宝を代表する清純派スターで、その明るいキャラクターは今も多くの名作の映像に残されている。
1956年に谷口と離婚。1961年に病気で引退するが、その後1971年に週刊誌に取り上げられたのがきっかけで復帰。夜の番組や、『お祭り銀次捕物帳』にレギュラー出演したが、次第に奇行が見られはじめ、1973年に出演した『婦系図・前後篇』が最後の出演となった。
1984年に共に暮らしていた母(それ以前に姉も失っていた)を亡くしてから精神状態が悪化、強制入院させられてから1ヶ月後の1985年5月9日、東京・調布市の病院で首吊り自殺する。享年55。80代としか思えないほどのやつれぶりだったという。
(出典:Wikipedia)
1946年、東宝ニューフェイス第1期生として東宝へ入社。デビュー作は『四つの恋の物語』(1947年)。
1949年の『青い山脈』で丸メガネの女学生・和子、『次郎長三国志』シリーズの次郎長の女房・お蝶を演じた。戦後第一期の東宝を代表する清純派スターで、その明るいキャラクターは今も多くの名作の映像に残されている。
1956年に谷口と離婚。1961年に病気で引退するが、その後1971年に週刊誌に取り上げられたのがきっかけで復帰。夜の番組や、『お祭り銀次捕物帳』にレギュラー出演したが、次第に奇行が見られはじめ、1973年に出演した『婦系図・前後篇』が最後の出演となった。
1984年に共に暮らしていた母(それ以前に姉も失っていた)を亡くしてから精神状態が悪化、強制入院させられてから1ヶ月後の1985年5月9日、東京・調布市の病院で首吊り自殺する。享年55。80代としか思えないほどのやつれぶりだったという。
(出典:Wikipedia)
東京市芝区三島町8番地(現・港区芝大門一丁目あたり)でトンカツ屋を営む父・半二郎、母・よしの長女として誕生する。4歳で母・よしが死去。1932年3月、三田高等女学校(現・三田国際学園高等学校)をトップクラスの成績で卒業後、森永製菓に入社し初代スイートガールとして販売促進・営業宣伝のため、全国の百貨店やキャンディーストアーを巡る。1934年、赤坂溜池のダンスホール『フロリダ』で 人気ダンサーとして働いているときにスカウトされ松竹へ入社。同年11月封切の『金環蝕』でデビューを果たす。翌1935年には新入社の上原謙と「アイアイコンビ」として売り出し人気も上昇した。以後、小津安二郎や清水宏・島津保次郎など日本を代表する名監督の作品への出演を重ねた。1942年7月17日、森永製菓社員時代から社員同士で縁があった斎藤芳太郎との間に長女みゆきをもうける。なお斎藤芳太郎は妻子ある身であった。1946年、溝口健二監督の「女性の勝利」に出演するも、3月29日、大船撮影所にて撮影中にあとワンカットを残し突然倒れ大船病院に運ばれた。4月1日に子宮外妊娠による出血多量が原因で逝去。31歳の若さだった。
(出典:Wikipedia)