1930年誕生
桂木 洋子(かつらぎ ようこ) 松竹の大スター
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新珠 三千代(あらたま みちよ)
新珠 三千代(あらたま みちよ)
新珠 三千代(あらたま みちよ、本名:戸田 馨子(とだ きょうこ)、1930年1月15日 - 2001年3月17日)は、奈良県奈良市出身の日本の女優。
普連土学園に入学後、13歳で宝塚音楽学校に転学。終戦を待って宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は15人中4位[1]。1946年『グラナダの薔薇』で初舞台。宝塚歌劇団33期生。
可憐な美貌と歌唱力でトップ娘役として活躍。中でも、同じ年に初舞台を踏んだ明石照子とのコンビは絶賛された。宝塚歌劇団時代の代表作には『ハムレット』『ひめゆりの塔』『ジャワの踊り子』などがある。
1951年、東宝『袴だれ保輔』で映画デビュー。
1955年に宝塚を退団し、日活に入社して映画女優として活躍、月丘夢路と並んで看板スターになる。
1956年、『洲崎パラダイス赤信号』(川島雄三監督)をヒットさせるが、1957年には東宝に移籍、亡くなるまで東宝所属(東宝芸能所属)だった。1959年スタートの6部作『人間の條件』では苦難を乗り越え戦場まで夫を追い求めるひたむきな妻を演じ、ブルーリボン助演女優賞を受賞。また東宝の看板映画である『社長』シリーズに数多く出演した。
1966年度のキネマ旬報ベストテンで10位に入賞した『女の中にいる他人』では内に秘めた女の情念を見事に演じ切った。
テレビドラマでは『氷点』にて医師夫人・辻口夏枝役を演じたほか、『細うで繁盛記』での数々の困難にもめげずに伊豆・熱川の温泉旅館を切り盛りするおかみ・加代役で人気を決定づけた。『虹を織る』では、ヒロインを指導する教員(日舞担当)・上原敏江役を演じた。また、舞台での『細雪』の二女は当たり役とも評された。このように、和服が似合う清楚高潔な「伝統的な日本女性」としてのイメージを保ちながら、娘役から母親役、良妻賢母から悪女まで、幅広い役柄を演じられる器量が評価され、各方面から絶賛された。
普連土学園に入学後、13歳で宝塚音楽学校に転学。終戦を待って宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は15人中4位[1]。1946年『グラナダの薔薇』で初舞台。宝塚歌劇団33期生。
可憐な美貌と歌唱力でトップ娘役として活躍。中でも、同じ年に初舞台を踏んだ明石照子とのコンビは絶賛された。宝塚歌劇団時代の代表作には『ハムレット』『ひめゆりの塔』『ジャワの踊り子』などがある。
1951年、東宝『袴だれ保輔』で映画デビュー。
1955年に宝塚を退団し、日活に入社して映画女優として活躍、月丘夢路と並んで看板スターになる。
1956年、『洲崎パラダイス赤信号』(川島雄三監督)をヒットさせるが、1957年には東宝に移籍、亡くなるまで東宝所属(東宝芸能所属)だった。1959年スタートの6部作『人間の條件』では苦難を乗り越え戦場まで夫を追い求めるひたむきな妻を演じ、ブルーリボン助演女優賞を受賞。また東宝の看板映画である『社長』シリーズに数多く出演した。
1966年度のキネマ旬報ベストテンで10位に入賞した『女の中にいる他人』では内に秘めた女の情念を見事に演じ切った。
テレビドラマでは『氷点』にて医師夫人・辻口夏枝役を演じたほか、『細うで繁盛記』での数々の困難にもめげずに伊豆・熱川の温泉旅館を切り盛りするおかみ・加代役で人気を決定づけた。『虹を織る』では、ヒロインを指導する教員(日舞担当)・上原敏江役を演じた。また、舞台での『細雪』の二女は当たり役とも評された。このように、和服が似合う清楚高潔な「伝統的な日本女性」としてのイメージを保ちながら、娘役から母親役、良妻賢母から悪女まで、幅広い役柄を演じられる器量が評価され、各方面から絶賛された。
1931年誕生
八千草 薫(やちぐさ かおる)
八千草 薫(やちぐさ かおる)
八千草 薫(やちぐさ かおる、1931年1月6日 - )は、日本の女優。本名:谷口 瞳(たにぐち ひとみ)、旧姓:松田(まつだ)。所属事務所は柊企画。
大阪府出身、プール女学院出身。愛称:ヒトミ(ちゃん、本名に由来)、公称身長154センチ。
宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなし、当時の『お嫁さんにしたい有名人』の統計でたびたび首位に輝いた。
(出典:Wikipedia)
大阪府出身、プール女学院出身。愛称:ヒトミ(ちゃん、本名に由来)、公称身長154センチ。
宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなし、当時の『お嫁さんにしたい有名人』の統計でたびたび首位に輝いた。
(出典:Wikipedia)
山本富士子(やまもと ふじこ) 大映の看板女優
山本 富士子(やまもと ふじこ)
山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は日本の女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159cm。
大阪市西区立売堀生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。和泉市で育ち、後に泉大津市助松に引越し浜寺小学校に入学。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。
1950年、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。
(出典:Wikipedia)
大阪市西区立売堀生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。和泉市で育ち、後に泉大津市助松に引越し浜寺小学校に入学。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。
1950年、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。
(出典:Wikipedia)
via cinema.ne.jp
香川 京子(かがわ きょうこ) フリーの大女優
香川 京子(かがわ きょうこ)
香川 京子(かがわ きょうこ、1931年12月5日 - )は、日本の女優。本名は、牧野 香子(まきの きょうこ)。茨城県行方郡麻生町(現行方市)生まれ。東京都立第十高等女学校卒業。身長162cm、体重45kg。女学校卒業後の1949年東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格、新東宝に入社する。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えたが、家庭の事情で断念。その後バレエの『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まり応募したという。この際、一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母親の助言もあり、女優の道に進むことになる。
1950年、島耕二監督の『窓から飛び出せ』でデビューする。芸名の「香川 京子」は、映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と香川自身が考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、また本名の「きょうこ」という音も用いられるこの芸名にしたという。
日本の大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになった おかげで、各映画会社の映画黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。この多くの巨匠の様々な役に自身がキャスティングされたことについて、本人は個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思うと、謙遜して答えている。
女優として多くの作品に出演しているが、『ひめゆりの塔』(1953年)への出演が転機になったようで、この作品に出会ってから女優としての意義を意識するようになったと語っている。この作品では監督の今井正から役作りのために、役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと後年、ラジオ番組の出演で述べている(NHKサービスセンター、『女優が語る私の人生』)。
成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。また、溝口健二監督の『近松物語』でヒロインを演じ、この作品で初の人妻を演じたのだが、この当時の香川は未婚であったために、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったと言う。
黒澤明監督の作品にも多く出演し、特に黒澤作品に出演すると、看板役者であった三船敏郎の恋人または妻役を演じることが多かった。2010年の黒澤明誕生100年にあたっては、仲代達矢と回想対談した(『文藝春秋』2010年7月号、「私たちのクロサワ悶絶体験 生誕100年」)。黒澤作品においては、三船敏郎と、女優としては最も多い9回の共演回数をほこる。『悪い奴ほどよく眠る』が特に思い出深いという。
1963年の結婚後、1965年の『赤ひげ』出演して以降、出産、育児。そして新聞記者であった夫の海外赴任先ニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れる。なおこのニューヨーク滞在時には、近所に日本人が多くいたおかげで、主婦業が大いに磨かれたという。またこのニューヨーク在住時に1965年北アメリカ大停電を経験している。
1968年の帰国後は、テレビ・舞台での出演が多くなった。映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された。
FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された。
(出典:Wikipedia)
1950年、島耕二監督の『窓から飛び出せ』でデビューする。芸名の「香川 京子」は、映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と香川自身が考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、また本名の「きょうこ」という音も用いられるこの芸名にしたという。
日本の大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになった おかげで、各映画会社の映画黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。この多くの巨匠の様々な役に自身がキャスティングされたことについて、本人は個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思うと、謙遜して答えている。
女優として多くの作品に出演しているが、『ひめゆりの塔』(1953年)への出演が転機になったようで、この作品に出会ってから女優としての意義を意識するようになったと語っている。この作品では監督の今井正から役作りのために、役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと後年、ラジオ番組の出演で述べている(NHKサービスセンター、『女優が語る私の人生』)。
成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。また、溝口健二監督の『近松物語』でヒロインを演じ、この作品で初の人妻を演じたのだが、この当時の香川は未婚であったために、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったと言う。
黒澤明監督の作品にも多く出演し、特に黒澤作品に出演すると、看板役者であった三船敏郎の恋人または妻役を演じることが多かった。2010年の黒澤明誕生100年にあたっては、仲代達矢と回想対談した(『文藝春秋』2010年7月号、「私たちのクロサワ悶絶体験 生誕100年」)。黒澤作品においては、三船敏郎と、女優としては最も多い9回の共演回数をほこる。『悪い奴ほどよく眠る』が特に思い出深いという。
1963年の結婚後、1965年の『赤ひげ』出演して以降、出産、育児。そして新聞記者であった夫の海外赴任先ニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れる。なおこのニューヨーク滞在時には、近所に日本人が多くいたおかげで、主婦業が大いに磨かれたという。またこのニューヨーク在住時に1965年北アメリカ大停電を経験している。
1968年の帰国後は、テレビ・舞台での出演が多くなった。映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された。
FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された。
(出典:Wikipedia)
via cinema.ne.jp
久我 美子(くが よしこ) 東宝の大スター
久我 美子(くが よしこ)
久我 美子(くが よしこ、1931年1月21日 - )は、日本の女優。身長153cm。本名:小野田 美子(おのだ はるこ)、旧姓:久我(こが)。所属芸能事務所はワタナベエンターテインメント。
久我家(こがけ)は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、東京市牛込に生まれる。
1946年、 学習院女子中等科在学中、第一期東宝ニューフェイスに合格。同期に三船敏郎・堀雄二・伊豆肇・若山セツ子・堺左千夫らがいる。1947年、学習院を中退し、『四つの恋の物語』で映画デビューを果たす。
1950年の映画『また逢う日まで』での岡田英次との窓硝子ごしの接吻を演じた(日本の映画界では1960年代のはじめ頃まで接吻のクロースアップはタブーだった)。
1954年、岸恵子・有馬稲子とともに文芸プロダクションにんじんくらぶを結成した。
1961年、俳優と結婚する気はなかったが、平田昭彦からの猛烈な求愛の末に結婚した。
1969年より約1年間、『3時のあなた』の司会を務めるなど、1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍する。
1989年の映画『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。
2004年、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の時に、久々に公の場に姿を見せた。
(出典:Wikipedia)
久我家(こがけ)は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、東京市牛込に生まれる。
1946年、 学習院女子中等科在学中、第一期東宝ニューフェイスに合格。同期に三船敏郎・堀雄二・伊豆肇・若山セツ子・堺左千夫らがいる。1947年、学習院を中退し、『四つの恋の物語』で映画デビューを果たす。
1950年の映画『また逢う日まで』での岡田英次との窓硝子ごしの接吻を演じた(日本の映画界では1960年代のはじめ頃まで接吻のクロースアップはタブーだった)。
1954年、岸恵子・有馬稲子とともに文芸プロダクションにんじんくらぶを結成した。
1961年、俳優と結婚する気はなかったが、平田昭彦からの猛烈な求愛の末に結婚した。
1969年より約1年間、『3時のあなた』の司会を務めるなど、1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍する。
1989年の映画『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。
2004年、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の時に、久々に公の場に姿を見せた。
(出典:Wikipedia)
千原しのぶ(ちはら しのぶ) 東映 お姫様女優
千原しのぶ(ちはら しのぶ)
千原 しのぶ(ちはら しのぶ、1931年1月16日 - 2009年11月22日)は、日本の女優。本名は石原知子。岡山県出身。
1952年に東映に入社する。片岡千恵蔵主演映画「忠治旅日記・逢初道中」でデビュー。1953年「大菩薩峠 甲賀一刀」に披擢され、シリーズに出演。1954年 - 1956年まで60本の映画に出演する。東映の「お姫様女優」の一人として活躍した。
1957年(昭和32年)1月13日、同1月20日から1月25日まで開催された日本映画見本市に出席のため、団長の東映社長の大川博らと共にニューヨークへ出発。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なニューヨーク訪問となった。
月形龍之介、東千代之介、大川橋蔵の相手役もつとめた。1958年以降脇役に回る。
1974年に那覇市で呉服店開店。のちに京都市で高級オリジナル呉服を扱う「しのぶ好み」を経営。
1993年に相米慎二監督の『お引越し』、1995年に『南京の基督』で久々に映画に出演した。
全日本書芸学院副理事。
2009年6月、「中村錦之助(萬屋錦之介)十三回忌 錦之助映画祭りin京都Part2」のゲストで登場し、車椅子で酸素呼吸器をつけながらも元気な姿を見せたが、同2009年11月22日、肺がんのため死去。
(出典:Wikipedia)
1952年に東映に入社する。片岡千恵蔵主演映画「忠治旅日記・逢初道中」でデビュー。1953年「大菩薩峠 甲賀一刀」に披擢され、シリーズに出演。1954年 - 1956年まで60本の映画に出演する。東映の「お姫様女優」の一人として活躍した。
1957年(昭和32年)1月13日、同1月20日から1月25日まで開催された日本映画見本市に出席のため、団長の東映社長の大川博らと共にニューヨークへ出発。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なニューヨーク訪問となった。
月形龍之介、東千代之介、大川橋蔵の相手役もつとめた。1958年以降脇役に回る。
1974年に那覇市で呉服店開店。のちに京都市で高級オリジナル呉服を扱う「しのぶ好み」を経営。
1993年に相米慎二監督の『お引越し』、1995年に『南京の基督』で久々に映画に出演した。
全日本書芸学院副理事。
2009年6月、「中村錦之助(萬屋錦之介)十三回忌 錦之助映画祭りin京都Part2」のゲストで登場し、車椅子で酸素呼吸器をつけながらも元気な姿を見せたが、同2009年11月22日、肺がんのため死去。
(出典:Wikipedia)
島崎 雪子(しまざき ゆきこ)
島崎 雪子(しまざき ゆきこ)
島崎 雪子(しまざき ゆきこ、1931年2月25日 - )は、日本の元女優、シャンソン歌手。本名:土屋 とし子(つちや としこ)。元夫は映画監督の神代辰巳。東京都出身。大田原高等女学校(現・栃木県立大田原女子高等学校)卒業。
終戦後、役者を志し、中央演劇学校で学び、1949年俳優座養成所の2期生に。1950年に藤本真澄の目に適い、映画『山のかなたに』でデビュー。1951年東宝に入社。映画『めし』『若い人』『七人の侍』などに出演し活躍。東映や日活、新東宝の映画にも多数出演している。
1955年に当時は日活の助監督であった神代辰巳と結婚。
1959年からはシャンソン歌手としても活動を始め、同年の「第10回NHK紅白歌合戦」に歌手として初出場した(詳細は下記参照)。この回の紅組の初出場は他にザ・ピーナッツらがいる。
終戦後、役者を志し、中央演劇学校で学び、1949年俳優座養成所の2期生に。1950年に藤本真澄の目に適い、映画『山のかなたに』でデビュー。1951年東宝に入社。映画『めし』『若い人』『七人の侍』などに出演し活躍。東映や日活、新東宝の映画にも多数出演している。
1955年に当時は日活の助監督であった神代辰巳と結婚。
1959年からはシャンソン歌手としても活動を始め、同年の「第10回NHK紅白歌合戦」に歌手として初出場した(詳細は下記参照)。この回の紅組の初出場は他にザ・ピーナッツらがいる。
1948年、黒澤明脚本の『肖像』を準備中の木下惠介監督の目に留まり、この作品で映画デビューする。続いて、同監督の『破戒』に出演したのを期に歌劇団を退団し、松竹に入社する。
その後、木下監督の作品に次々と出演する傍ら、1950年に『三つの結婚』に初主演するなど、甘い美貌で人気を集めた。1953年に作曲家の黛敏郎と結婚し、以降は家庭を優先して徐々に出演本数を減らし、1963年の日活『丘は花ざかり』を最後に引退した。
2007年3月に死去した。満76歳没。葬儀は近親者で済ませ、翌月に公表した。死亡日や死因などの詳細は遺族の意向で伏せられた。なお、夫の黛敏郎は1997年4月に亡くなっている。
長男黛りんたろうは、日本放送協会のドラマ演出家で、映画監督もしている。
(出典:Wikipedia)