当時、この人たちが実在するのかどうかが気になって、眠れない夜が続くのでした。(大げさ)
音楽にも力を入れていました
1986年頃からは、ゲームメーカーの許可を得て、ゲームミュージックをパソコンで鳴らすプログラムや、楽譜が掲載されるようになった。
代表的な音楽ライター
古代祐三
高校生の時、電波新聞社に自作のゲームミュージックプログラムを持ち込んだ事で、同社出版のコンピューター誌『マイコンBASICマガジン』の音楽担当となり、ライター活動を行う。「YK-2」名義でゲームミュージックのパソコン向けプログラムを多数発表した他、いくつかゲームのレビューも掲載されている。
代表作に『イース』、『イースII』、『ソーサリアン』、『ドラゴンスレイヤーIV』、『ザ・スーパー忍』、『ベア・ナックル』シリーズ、『アクトレイザー』、『湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE』シリーズ、『世界樹の迷宮』シリーズ、『セブンスドラゴン』シリーズ他多数。
出典:wikipedia
代表作に『イース』、『イースII』、『ソーサリアン』、『ドラゴンスレイヤーIV』、『ザ・スーパー忍』、『ベア・ナックル』シリーズ、『アクトレイザー』、『湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE』シリーズ、『世界樹の迷宮』シリーズ、『セブンスドラゴン』シリーズ他多数。
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via www26.atwiki.jp
永田英哉
『マイコンBASICマガジン』では“Yu-You”のペンネームで活躍。電波新聞社近傍にかつて存在した中華料理店の名前「遊々」がそのペンネームの由来。
マイコンBASICマガジン誌上の「読者の闘技場」という投稿お笑いコーナーで、「いじられる」ライターの常連だった。
マイコンBASICマガジン誌上での主な活動はMusic Macro Languageによるゲームミュージックのコピー(打ち込みプログラム)の発表や読者の投稿プログラムの批評、FM音源講座などだが、後期にはX68000用音楽演奏ドライバ「NAGDRV」(内蔵FM音源(YM2151)、ADPCM、外部MIDI機器の同期演奏が可能)を発表したりしていたこともある。
ゲームとしては、日本ファルコムの『ソーサリアン』や『イースII』などの作品に携わる。
代表作は、『イースII』の「RUINS OF MOONDORIA(ムーンドリアの廃墟)」・「CAVERN OF RASTEENIE(ラスティーニの洞窟)」・「PALACE OF SALMON(サルモンの神殿)」など。
出典:wikipedia
マイコンBASICマガジン誌上の「読者の闘技場」という投稿お笑いコーナーで、「いじられる」ライターの常連だった。
マイコンBASICマガジン誌上での主な活動はMusic Macro Languageによるゲームミュージックのコピー(打ち込みプログラム)の発表や読者の投稿プログラムの批評、FM音源講座などだが、後期にはX68000用音楽演奏ドライバ「NAGDRV」(内蔵FM音源(YM2151)、ADPCM、外部MIDI機器の同期演奏が可能)を発表したりしていたこともある。
ゲームとしては、日本ファルコムの『ソーサリアン』や『イースII』などの作品に携わる。
代表作は、『イースII』の「RUINS OF MOONDORIA(ムーンドリアの廃墟)」・「CAVERN OF RASTEENIE(ラスティーニの洞窟)」・「PALACE OF SALMON(サルモンの神殿)」など。
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via www.suruga-ya.jp
X68000で高度な音楽を演奏することができる『NAGDRV』にはお世話になりました。載っていた楽譜から打ち込みしてみたり、MML(パソコンの音楽言語)を入力して音楽を演奏させたりなど、プログラムやゲームだけでなく音楽も熱かったのです。
後年明かされたベーマガの舞台裏
・『ベーマガ』の読者ターゲットとなった年齢層は?
13、14歳ぐらいですね。うちはパソコン誌でもプログラムをメインにしようと考えて、やるなら面白くないとと思い、記事の中心をゲームにしました。その結果、年齢層が低くなりましたね。入門者向けと思ってふたを開けたら、中学生が半分以上でした。
・編集方針としてのポリシーとかはありましたか?
『ベーマガ』の前に創刊されていたPC専門誌にもプログラムのソースコードが載っていたのですが、長かったんです。プログラムの楽しさを教えてあげるには、わずかな時間でゲームを作れるものにしたかった。そのため「短いプログラムをたくさん載せよう」というコンセプトを『ベーマガ』は打ち立てました。
当時、子供にとってパソコンは高価で、電気屋さんやパソコンを持っている友達のところに行って触らせてもらうような状況の中、30分でプログラムを打って作って遊べるくらいの長さを目安にソースコードを掲載していましたね。
・『ベーマガ』の人気コーナーだった「投稿」について教えてください
プログラムの投稿は月に1000本以上あってそのうち、1983年当時で月に50本以上のプログラムを掲載していました。プログラムの内容はゲームがいちばん多かったですね。
掲載の基準は何よりアイデアがいちばんでした。これは目新しいなと思ったものを拾っていった。そして、次に重要なのはできるだけ短時間で打てる短いプログラムであること。アイデアが良くてもプログラムがあまり良くないという場合もありました。そうすると、Dr.Dが「ここが良いorダメ」と添削していたので、採用された人もそれで学んだと思います。
プログラム以外にもイラストの投稿がありましたね。プログラムを作れない方はイラストとか、あとはオーバーフローっていうはみだしのコーナーにたくさん投稿がありました。イラストではベーマガキャラクターの影さんが一番人気でした。ボケというか、よくパソコンを壊したり、仕事のじゃまをしたりというキャラでしてね。プログラムの注釈をつけるのはDr.Dだけど、編さんや影さんもゲームとしての面白さとかの論評とかを書いていました。オーバーフローに答えていたりとか。
そういうことも含めて、投稿にしても、イラストにしても、『ベーマガ』は読者の支えによって成り立っていた雑誌でしたね。
・制作側の楽しみはどんなところにありましたか?
やっぱり読者からの反応が楽しかったですね。はがきや電話で中・高校生の子から「プログラムが動かない」といった連絡がよくありましてね。話しているとすごく一生懸命でこちらが教えてあげると、その後「できました、ありがとう」って電話がかかってきてこちらがほっとしたり……。読者にとって自分に近い人たちが作っているってイメージがあったんじゃないかなって思います。
それとどこの会社にも、うちの読者だったという方がいてくれることですね。元読者でエンジニアになったというような方も多いですよ。
『ベーマガ』休刊前の数年間、学校の取材記事があって、そのときに先生が「読者だったんです」と言ってくれたりしました。「『ベーマガ』から取材が来るとは思わなかった」と喜んでくれて、自分も投稿をしたことがあるという話とかを聞いたりして。その先生が投稿したプログラムを掲載した記事を持参していくと、生徒が驚いて、先生が喜んで……と楽しい経験がいっぱいあります。
『ベーマガ』休刊をお知らせしたとき、ネットの掲示板ですごい数のスレッドが立って、その中の書き込みも「『ベーマガ』ありがとう」というコメントが多くて……。「自分が今あるのは『ベーマガ』のおかげ」と書いてくれる人もたくさんいて、すごくうれしかった。そのときのスレッドや書き込みは今でも印刷して大事にとってあるんですよ。
入門者向けということを大きく意識していたのですね。確かに載っているプログラムは程々の長さで、「これなら打ち込んでみようかな」という気分になりました。プログラムが長すぎると打ち込みが大変ですし、打ち込んだゲームがつまらなかった時のガッカリ感が半端無いですからね。
しかし時代の波には逆らえず、緩やかに衰退へ
その後長らくは、既に市場から姿を消した機種を含んで、パソコン関連のプログラムを掲載する傍ら、新製品の紹介やゲームレビューなどを地道に掲載し、一定の固定読者層を獲得していた。しかしインターネットが普及して以降、プログラムソース配布も個人が自分のウェブサイトを介して行う様式が定着、ソフトウェア投稿誌としての需要の低下が進んでいく。
そして休刊へ
その後、2001年4月号には、長年本誌を支えてきた市販ゲーム関連の記事を全廃し、中高生向けのパソコン入門誌として特化を試みた。しかし、削除された記事に代わる他の記事が充実した訳ではなかったため、ページ数は130ページとさらに減少。紙は厚いのに本はかつてのリニューアル前より薄くなった。これにより、新たな中高生の読者を獲得しないまま古くからの読者が離れてしまい、かえって逆効果となってしまう。そして1996年当時28万6000部あった発行部数は、2003年には8分の1程度まで減少してしまい、ついに2003年4月8日に発売された2003年5月号をもって休刊となった。
休刊する事実は、休刊号発売のおよそ半月前である2003年3月25日に公式サイト上で発表され、ITmediaなどのIT系ニュースサイトが一斉にニュースとして取り上げた。
出典:wikipedia
休刊する事実は、休刊号発売のおよそ半月前である2003年3月25日に公式サイト上で発表され、ITmediaなどのIT系ニュースサイトが一斉にニュースとして取り上げた。
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via www.openspc2.org
ベーマガは実に多くの技術者を育て、社会に輩出しました。ベーマガはなくなってしまいましたが、その大いなる功績は今後も称えられていくことでしょう。その熱いスピリットと輝かしい思い出は、永遠に我々の心に刻まれています。
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