清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督1 「OVER THE TOP」
2017年1月30日 更新

清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督1 「OVER THE TOP」

清宮克幸は、大阪府立茨田高校でラグビーを始め、高校日本代表となった。 そして早稲田大学では、2年生で、伝説の雪の早明戦を勝ち、全国大学選手権を優勝。 そして日本選手権でも社会人チームを破って優勝。 4年生で、主将として全国大学選手権優勝し、日本選手権で神戸製鋼に敗れた。 1990年、サントリーに入社し、ラグビー部主将となり、チームを初の日本一に導き、2001年、早稲田大学ラグビー部監督に就任した。

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「チャンスは何度もない」集中した練習、トレーニングは目的を理解し、目標を決めて、アナログではなくデジタル化(数値化)

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清宮はそれまで毎日5~6時間の練習をしていたのを2時間にした。
時間配分を含めて練習メニューをすべて変えていった。
「以前の練習も2時間程度でできる内容だった。
それを細部までこだわり完璧にやろうとするから5時間も6時間もかかっていた。
大きな幹を太くすることだけにこだわって、枝葉の部分はあえて目をつぶるのが1番早く強くなる方法だ。
長い練習時間など必要ない。
チャンスは何度もないという集中した練習が大事である。
例えば、練習でミスが続いたらその時点でその練習を終わらせる。
ダラダラ練習することは決して意味あることではない。
1週間に6日練習するのだから、1日にあまり長くやっていたら緊張感が持続できない。
要は集中力を高め効率よく練習することである。
練習時間が減れば、選手は自分の弱点を補う練習をしたり自主的にやりたいことができるようにもなる。」
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トレーニングは、トレーニング目的を理解し、トレーニング目標を決めて、またアナログではなくデジタル化(数値化)して行った。
例えば走るのでも、「グランウンドを○○周」「ダッシュ○○本」などと闇雲に走るのではなく、距離と時間、ワーク・レスト(例えば20秒走って30秒休むなど負荷をかける時間、休む時間のバランス)をしっかり計測して走った。
選手それぞれのレベルに合う負荷がかかるように走る時間、距離、休憩時間をしっかり管理され
ウエイトトレーニングは、「このプレーのためにこの筋肉を鍛える」「そのためにこのエクササイズを採用する」「1ヶ月でこのエクササイズの挙上重量を3kgアップさせる」などというように行われた。
筋力トレーニングは、非常に単調な作業だが、トレーニング結果を数値化して年間、月間データ化すれば、「昨日より今日、今日より明日」とやる気を引き出すことができた。
ラグビーの練習は、基本プレーを反復した。
鋭いステップ、切れ味のいいパスなどはセンスの領域だが、ボールを守り続けるような愚直なプレーは練習すればするほどうまくなる。
この類のプレーを繰り返した。
「ボールを取るときは声を出す。」
「練習中のミスは他の部員がチェックする。」
「相手に向かって真っ直ぐ走ってパスする。」
など、高校生がするような基本を徹底した。
サインプレーはその数を絞り込んだ。
基本的なカットイン、クロスなどのプレーのみ残し、複雑で華麗なサインプレーは捨てた。
パスならパス、ハンドリングならハンドリングと練習の目的を明確にし、最初から絶対的な本数を決めて、絶対にそれ以上やらないようにした。
「練習でさえ自分に何度もチャンスが与えられるわけではないということを選手に知らしめなければならない。」

俺はどっちがいいか迷ったときは若いやつを使う、4年生よ、あがき苦しめ

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早稲田ラグビー部は各学年は定員30人までで、春の入部希望者はふるいにかけられる。
仮に落ちても1年間精進し、翌年また新入部員と共にテストを受けることができる。
部員はみな早稲田の赤黒ジャージにあこがれ、早慶戦や早明戦、大学選手権にあこがれている。
チームがAからEまで5チームある。
AチームとBチームがシニア。
CチームとDチームがジュニア。
Eチーム以下がコルツ。
この3部構成で練習を行う。
シニア、ジュニア、コルツの間には目に見えない壁がある。
すべての部員がこの壁を乗り越えようとしている。
週末は各チーム間で交流試合が行われる。
上のチームに上がるためには練習や試合でいいプレーをすれば壁を越えることができる。
AチームとBチーム、CチームとDチームの選手が入れ替わることなど日常茶飯事で、極端な例ではDチームからAチームへ引き上げられるケースもある。
「結果を出せば上がれる」という透明性の高いルールは選手にプレッシャーとモチベーションを与える。
そして清宮は、実力が同じなら若手を起用すると決めていた。
すでに数年鍛えられた4年生より1年生、2年生のほうが将来伸びる伸びシロが大きいからである。
「どっちがいいか迷ったときは若いやつを使う。」
と公言し、チームがギスギスすることを防いだ。
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しかし清宮は同時に4年生の「あがき」を奨励した。
この「あがき」は、あきらめが悪いというネガティブなものでなく、最後の最後まで競う、最後の1cmに命を懸けるという意味である。
このあがきが伸びシロを上回るケースもあった。
「本当に競い合った者同士だけが手に入れることができるものがある。
本気で勝負しなかった人間は真の意味での仲間、一生大事にしていける友人をつくることができない。
だから4年生、あきらめず最後の最後まであがき苦しめ。
若いのがどんどん伸びてくるが絶対にあきらめるな。」
4年生の中にも、Aチームで試合に出て大活躍する選手がいれば、下のチームでがんばり将来Aチームでプレーするような下級生に好影響を与える者もいる。
また4年の最後にがんばりを見せてレギュラーの座をつかむ者もいる
4年生がそういうがんばりを見せると下級生は練習であきらめずがんばる。
レギュラーになれない4年生が最後まで意地を見せるから下級生のスタメンは試合で燃えることができる。
あがくに値する舞台さえあれば4年生は進んで意地を見せてくれる。
重要な試合で4年生のあがきに賭けることさえあった。

マメに前言撤回、方向転換

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清宮は、いつも努めて選手とコミュニケーションをとり、自分の発想や考えを選手に話した。
それは、しょっちゅう誤りだったり、もっと優れたことを思いついたりする。
すると早々に謝った。
「すいませんでした、皆さん。」
「昨日こう言ったけど間違っていたので昨日の練習は忘れてください。」
「皆さんの時間を無駄にしてすまん。」
選手からいい意見が出たら
「それでいこう。」
と素直に認めた。
大きな方向性や大事な芯はブラさないが、前言撤回や方向転換は頻繁にやった。
いずれにせよ自分の間違いを隠さないようにした。

挑戦状

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清宮は目標である関東学院の春口廣監督に挨拶するために電話でアポイントをとった。
春口は、1974年から関東学院大学の指揮を執った
早稲田大学などと違い歴史のなかった関東学院大学は、前を向いて進み続けるしかなかった。
そして1990年代、20年以上かかって、関東学院大学は、大学選手権のファイナリストの常連となった。
関東学院大が上昇すると、早稲田大学は頂から転げ落ちていった。
1989年度の清宮キャプテンの代の大学日本一を最後に、頂点になることはなかった。
そして2001年、清宮が監督に就任した。
春口は、清宮の申し出を断った。
17年前、清宮が高校日本代表としてアイルランドへ遠征したときに春口もトレーナーとして同行していた。
選手の良き兄貴的な存在だった。
試合で唇を切った清宮に春口は病院につきそったこともあった。
流血しながらプレーする清宮を見て春口は思った
「清宮の闘志はすごい。」
少しして清宮は再度、春口にアポイントをとった。
「やっぱり釜利谷(横浜市金沢区の関東学院大学のグラウンド)に行きます。
いいですか?」
「来なくてもいいよ。
どこかで会えるんじゃない?」
春口も再度、断った。
清宮はどうしても直接会って挑戦状を叩きつけたかったので、強引に訪問した。

関東学院大学のラグビートレーニング

釜利谷の関東学院は本当にいいチームだった。
チームキャプテンが練習後の後片付けを率先してやっていた。
いかにもラグビーを愛しているようだった。
清宮は春口に監督就任の挨拶と早稲田の挑戦への協力をお願いした。
「早稲田の監督がこんなところまで来てくれるとは、俺も強いチームを持ったもんだ。」
「春さん、今試合したら関東は強いから点差が開くかも知れません。
最初は50点差、その次は30点差くらいかな。
でも最後は早稲田が勝ちますよ。」
一瞬春口の目が鋭くなった。
「春の最終日に練習試合組んでください。」
清宮の依頼に春口は返事した。
「喜んでお受けします。」
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4月、練習試合で早稲田は明治に勝利し、関東学院戦に弾みをつけた。
6月、三ツ沢公園で早稲田と関東学院の練習試合が行われた。
早稲田は春先から打倒関東学院で練習してきた。
春口監督の心意気か、関東学院もベストメンバーを組んだ。
早稲田は本気で勝ちに行ったが、まるで歯が立たず、5対57で惨敗した。
選手たちはショックで誰もしゃべらなかった。
清宮はマイナス思考に陥った選手にいった。
「この差を秋のシーズンまでに埋めていくのが俺の仕事だ。
この試合に負けて早稲田は追いつかなくてはならない姿がイメージから実像へ変わった。
俺たちは今やっとスタートラインに立てたんだ。」
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