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フジコ・ヘミング は、第2次大戦前の起こる直前のドイツ、ベルリンで生まれた。
母親は、ピアニストの大月投網子。
実家は大阪で工場を経営し、父親(フジ子の祖父)が印刷用のインキを発明して財を成し、大月投網子は、東京芸術大学卒豪後、ベルリン芸術大学に留学していた。
父親は、ロシア系スウェーデン人のジョスタ・ジョルジ・ヘミング。
貴族の末裔という家系に生まれ、20歳を過ぎたばかりの頃、ベルリンの大手映画会社の広告デザインを担当していて、年上の大月投網子に出会った。
2人は結婚し、フジ子と弟のウルフ(俳優の大月ウルフ)が誕生した。
母親は、ピアニストの大月投網子。
実家は大阪で工場を経営し、父親(フジ子の祖父)が印刷用のインキを発明して財を成し、大月投網子は、東京芸術大学卒豪後、ベルリン芸術大学に留学していた。
父親は、ロシア系スウェーデン人のジョスタ・ジョルジ・ヘミング。
貴族の末裔という家系に生まれ、20歳を過ぎたばかりの頃、ベルリンの大手映画会社の広告デザインを担当していて、年上の大月投網子に出会った。
2人は結婚し、フジ子と弟のウルフ(俳優の大月ウルフ)が誕生した。
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「父はベルリンにいた頃、新進デザイナーで、最も有名で後々まで使用されているのはマレーネ・ディートリッヒが主演した映画「上海特急」のポスターで、幻想的な絵です。
父は芸術家にありがちな自由主義で、女性に対してもあまり責任を取るタイプではなく、いつもフラフラしているような若者でした。
母は、後からそれに気づいたようですが、当時は2人とも若かったため、出会ってすぐ恋に落ち、結婚しました。
私が両親のことで覚えているのは、いつもケンカばかりしていたということ。
ベルリンでも日本でも口ゲンカが絶えませんでした。
父は、女たらしで恰好をつけるタイプ。
母は、ヒステリーで気性が激しく、思い通りにいかないとわめきまくる。
2人は性格をよく見極めてから結婚すべきでしたが、若かったからか、お互いの本質を理解しないまま一緒になってしまいました」
(フジコ・ヘミング)
父は芸術家にありがちな自由主義で、女性に対してもあまり責任を取るタイプではなく、いつもフラフラしているような若者でした。
母は、後からそれに気づいたようですが、当時は2人とも若かったため、出会ってすぐ恋に落ち、結婚しました。
私が両親のことで覚えているのは、いつもケンカばかりしていたということ。
ベルリンでも日本でも口ゲンカが絶えませんでした。
父は、女たらしで恰好をつけるタイプ。
母は、ヒステリーで気性が激しく、思い通りにいかないとわめきまくる。
2人は性格をよく見極めてから結婚すべきでしたが、若かったからか、お互いの本質を理解しないまま一緒になってしまいました」
(フジコ・ヘミング)
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フジ子が5歳のとき、一家は東京へ移住。
それは日中戦争が起こる直前の頃で外国人に対する偏見や差別は強く、父親は仕事に就くことができなかった。
そして毎日、母親とケンカ。
結局、わずか1年で単身、ヨーロッパへ戻っていった。
「母は父について多くを語ろうとはしませんでした。
私には3歳下のウルフという弟がいますが、幼い子供たちを残して去っていった父を決して許そうとはしませんでした。
何度か父から手紙がきて「生活が軌道に乗ったら家族をスウェーデンに呼びたい」といっていたようですが、母は頑として応じようとはしませんでした。
電話もかかってきましたが「何いってんの、ノーったらノーよ」と、叫んでいる母の声を覚えています。
父から電話がかかってくると私はすぐに代わってほしいため、母の隣にピッタリくっついて電話の向こうの父の声を聞き取ろうとしました。
「ハロー、フジコ、元気かい?」
はるか彼方から聞こえてくる父の声は、懐かしさににあふれ、私はいつまでも受話器を離そうとしませんでした。
しかし母はもう父に愛想をつかしていたのかもしれません。
女手ひとつで2人の子どもを育てるため、ピアノを教えるようになったからです。
自宅で生徒を教えることも多かったのですが、出稽古に行くこともあり、裕福な外国人の子弟のレッスンを必死でこなしていました」
それは日中戦争が起こる直前の頃で外国人に対する偏見や差別は強く、父親は仕事に就くことができなかった。
そして毎日、母親とケンカ。
結局、わずか1年で単身、ヨーロッパへ戻っていった。
「母は父について多くを語ろうとはしませんでした。
私には3歳下のウルフという弟がいますが、幼い子供たちを残して去っていった父を決して許そうとはしませんでした。
何度か父から手紙がきて「生活が軌道に乗ったら家族をスウェーデンに呼びたい」といっていたようですが、母は頑として応じようとはしませんでした。
電話もかかってきましたが「何いってんの、ノーったらノーよ」と、叫んでいる母の声を覚えています。
父から電話がかかってくると私はすぐに代わってほしいため、母の隣にピッタリくっついて電話の向こうの父の声を聞き取ろうとしました。
「ハロー、フジコ、元気かい?」
はるか彼方から聞こえてくる父の声は、懐かしさににあふれ、私はいつまでも受話器を離そうとしませんでした。
しかし母はもう父に愛想をつかしていたのかもしれません。
女手ひとつで2人の子どもを育てるため、ピアノを教えるようになったからです。
自宅で生徒を教えることも多かったのですが、出稽古に行くこともあり、裕福な外国人の子弟のレッスンを必死でこなしていました」
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ピアノを教えて家計を支える母、フジ子、弟という3人暮らしとなった上、戦争が始まるとますます厳しい状況となる。
「父はイジめられ、仕事もなく、スウェーデンに帰っていきましたが、母も外国人と結婚したからと警察に連れて行かれたこともありました。
外国人は立入禁止だと海水浴場に入れなかったことや、意地悪されて食料の配給をもらえなかったこともありましたし、異人、異人とイジメられて石をブツけられることもありました」
そんな中、フジ子は5~6歳の頃に、母の手ほどきでピアノを始めた。
かつて家にピアノのレッスンに来た女の子が、母親に
「先週も同じ間違えをしたのに、なんでアンタは練習してこないの‼」
とものすごい剣幕で怒られ、ポロポロと涙を流して、まったく弾くことができなくなるのをみて
(かわいそう!
なんであんな教え方をするんだろう)
と思っていたが、自分は他の人と比べ物にならないほど厳しい指導を受けることになった。
「毎日、練習を欠かさない。
その積み重ねがなければピアニストになれない」
という母親は、フジ子に2時間ほどのレッスンが1日に何回も繰り返した。
それは
「音が間違ってる!」
「そろってない!」
と怒鳴り放しの厳しいスパルタ式で、フジ子は外で遊びたくてもダメ、トイレに逃げ込んでも引っ張り出され、あまりの厳しさに、いつも泣いていた。
母親について、
「1度もピアノをホメられたことがない」
「毎日何度も「このアホ」といわれ続けたので、40歳を過ぎるまでずっと自分は前代未聞のアホだと思っていたわ」
というが、
「そこにはたしかに愛情があった」
「正直で純粋で不器用。
そんな母のことが大好き」
という。
「父はイジめられ、仕事もなく、スウェーデンに帰っていきましたが、母も外国人と結婚したからと警察に連れて行かれたこともありました。
外国人は立入禁止だと海水浴場に入れなかったことや、意地悪されて食料の配給をもらえなかったこともありましたし、異人、異人とイジメられて石をブツけられることもありました」
そんな中、フジ子は5~6歳の頃に、母の手ほどきでピアノを始めた。
かつて家にピアノのレッスンに来た女の子が、母親に
「先週も同じ間違えをしたのに、なんでアンタは練習してこないの‼」
とものすごい剣幕で怒られ、ポロポロと涙を流して、まったく弾くことができなくなるのをみて
(かわいそう!
なんであんな教え方をするんだろう)
と思っていたが、自分は他の人と比べ物にならないほど厳しい指導を受けることになった。
「毎日、練習を欠かさない。
その積み重ねがなければピアニストになれない」
という母親は、フジ子に2時間ほどのレッスンが1日に何回も繰り返した。
それは
「音が間違ってる!」
「そろってない!」
と怒鳴り放しの厳しいスパルタ式で、フジ子は外で遊びたくてもダメ、トイレに逃げ込んでも引っ張り出され、あまりの厳しさに、いつも泣いていた。
母親について、
「1度もピアノをホメられたことがない」
「毎日何度も「このアホ」といわれ続けたので、40歳を過ぎるまでずっと自分は前代未聞のアホだと思っていたわ」
というが、
「そこにはたしかに愛情があった」
「正直で純粋で不器用。
そんな母のことが大好き」
という。
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母親は、外国人の血が混じっているフジ子をミッション系(キリスト教系)の青山学院初等部に入れた。
聖書の教えに基づく「全人教育」を奨励し、クリスチャンでない人でも受け入れる青山学院初等部。
クラスには、日本人だけでなく、イギリス人、台湾人、中国人の子供もいて、担任の先生は堂々と
「戦争で反対です」
といった。
父親がいなくなってしまった寂しさ、貧困、母親の厳しいレッスン、そんなツラい現実から逃れるためか、フジ子は空想するのが好きだった。
自由に気持ちを膨らませて、街の風景、道端、ピアノの練習、家族、裁縫、お気に入りの服、食べ物などからたくさんの楽しい瞬間を発見し、窓につく雨粒や物干し竿から落ちる雨だれをずっと眺め、その下に空き缶を置いて水が落ちる音を楽しんだりした。
そういった空想遊びは、やがて絵を描くことにつながっていった。
学校の夏休みの宿題がきっかけで絵日記をつけるようになり、授業で描いた絵が賞をとったこともあった。
フジ子のとって想像することと絵を描くことはなくてはならない楽しみとなった。
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「現実から離れて没頭できる趣味を持つことはとても大切。
なにか1つ持っているとツライことや悲しいことを一時忘れることができて心のリセットにつながる。
私が幼い頃から絵を描くのが大好きで、いつも絵ばかり描いていたのは、父から受け継いだものかもしれません。
ただし、父はいつもいっていました。
フジコ、絵描きにだけはなるなよ、食べていけないからって。
母は父のことをプレイボーイで格好ばかりつけて、責任感がなくて、勝手な男だといっていた。
純粋な母に対し、父か計算高くてずる賢い人。
けれど私は父からいいところをたくさんもらっている。
絵を描いていると私の中に父の血が流れていることを感じるの。
繊細でロマンチックだった父。
そこも受け継がれている」
一方、走るのが苦手なフジ子は、徒競走やマラソンで、いつもビリ。
運動会で走っているとき、
「うちのアホ娘、ビリで走ってる」
といいながら他のお母さんたちと笑う母親を目撃してショックを受けた。
大人になってドイツに渡り、膝が痛くなって病院にいったとき
「これはあなたのお母さんがあなたが赤ん坊のときに間違った方法でおしめを巻いたのが原因でしょう。
それであなたの股関節はおかしくなっているのです」
といわれた。
自分が走るのが苦手な原因が判明し、運動会のことを思い出したフジ子が知らせると、母親は申し訳なさそうにしていたという。
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母親の友人の娘がNHKのオーケストラでバイオリンを弾いていて、小学校3年生のフジ子のことを音楽部長に話したことがきっかけで、NHKラジオに出演することが決定。
当日、9歳のフジ子は、緊張しながらショパンの即興曲を生演奏。
番組放送後、反響を呼び、
「天才少女」
といわれた。
「小さい頃は何もわからずに弾いていたし、演奏会にいくお金もないし、テープレコーダーもなかったから、他の人がどんなに素晴らしいのか、下手なのか、聴く機会がなく、比べることもできなかった」
また10歳のとき、初めて猫を飼った。
以後、拾ったり保護したりしながら、常に犬や猫と一緒に過ごすことになる。
「母はあまり好きではなかったけど、なぜか飼うことを許してくれた。
飼えないときもあったけど、それからというもの私の人生に猫はなくてはならない存在になっていた。
スウェーデンの祖母の実家は動物病院で粗祖父は院長をしていたので、その血が流れているから猫と一緒にいるのかもしれない。
猫は人間みたいに嘘をつかないし裏切らない。
人にみられていることを意識して格好つけたり威張ったりしない。
純粋でつくられていないところが好き」
当日、9歳のフジ子は、緊張しながらショパンの即興曲を生演奏。
番組放送後、反響を呼び、
「天才少女」
といわれた。
「小さい頃は何もわからずに弾いていたし、演奏会にいくお金もないし、テープレコーダーもなかったから、他の人がどんなに素晴らしいのか、下手なのか、聴く機会がなく、比べることもできなかった」
また10歳のとき、初めて猫を飼った。
以後、拾ったり保護したりしながら、常に犬や猫と一緒に過ごすことになる。
「母はあまり好きではなかったけど、なぜか飼うことを許してくれた。
飼えないときもあったけど、それからというもの私の人生に猫はなくてはならない存在になっていた。
スウェーデンの祖母の実家は動物病院で粗祖父は院長をしていたので、その血が流れているから猫と一緒にいるのかもしれない。
猫は人間みたいに嘘をつかないし裏切らない。
人にみられていることを意識して格好つけたり威張ったりしない。
純粋でつくられていないところが好き」
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最初のピアノの先生は母親だったが、10歳からレオニード・クロイツァーの指導も受け始め、それは大学卒業まで断続的に続いた。
世界的ピアニストであり、東京芸術大学とベルリン芸術大学で教えていたレオニード・クロイツァーは、
「子供には教えない」
といっていたが、母親に連れられてやって来たフジ子のピアノを聴くと
「お金なんていいから教えよう‼」
フジ子は、葉巻をくわえたままピアノを弾くクロイツァーをみて、
「かっこいい!」
と感激。
クロイツァーは、フジ子がうまく弾くと目でそれを伝え、弾き終わった後、
「今に君は世界中の人を魅了する」
と飛び上がって喜ぶこともあった。
それまで母親に怒られてばかりだったフジ子は、
「なんでこんなに優しいの?」
と戸惑ったが、クロイツァーの温かい指導で、ますますピアノが好きになっていった。
そしてクロイツァーが日比谷公会堂で弾いた「 La Campanella(ラ・カンパレラ)」を初めて聴き、あまりに美しい音色に感激。
「ラ・カンパネラ」は、ピアニストで作曲家のフランツ・リストが1834年に作曲したピアノ曲で、「カンパレラ」 は、イタリア語で「鐘」という意味。
フジ子にとって後に自分の代表曲となり、人生を左右する大切な1曲との出会いだった。
世界的ピアニストであり、東京芸術大学とベルリン芸術大学で教えていたレオニード・クロイツァーは、
「子供には教えない」
といっていたが、母親に連れられてやって来たフジ子のピアノを聴くと
「お金なんていいから教えよう‼」
フジ子は、葉巻をくわえたままピアノを弾くクロイツァーをみて、
「かっこいい!」
と感激。
クロイツァーは、フジ子がうまく弾くと目でそれを伝え、弾き終わった後、
「今に君は世界中の人を魅了する」
と飛び上がって喜ぶこともあった。
それまで母親に怒られてばかりだったフジ子は、
「なんでこんなに優しいの?」
と戸惑ったが、クロイツァーの温かい指導で、ますますピアノが好きになっていった。
そしてクロイツァーが日比谷公会堂で弾いた「 La Campanella(ラ・カンパレラ)」を初めて聴き、あまりに美しい音色に感激。
「ラ・カンパネラ」は、ピアニストで作曲家のフランツ・リストが1834年に作曲したピアノ曲で、「カンパレラ」 は、イタリア語で「鐘」という意味。
フジ子にとって後に自分の代表曲となり、人生を左右する大切な1曲との出会いだった。
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中学3年生の2月、空襲が激しくなった東京から家族と一緒に岡山県総社市日羽に疎開。
2ヵ月後の4月、岡山県の高等女学校に入学した。
敵国の音楽を演奏することは憚られていたため、フジ子は毎日、みんなが帰った後、学校のピアノに向かい、練習を続けた。
すると意外な変化が起こった。
「いろんな兵隊さんが、私のピアノを聴いて感激して。
ある方は教室に入ってきて黒板に『愛しのフジちゃん、ピアノが素晴らしい』って白墨で書いてくれたのを思い出します。
彼女は外国の音楽をやっているのか、結構いいねと思ったらしくて、あるとき家にいたら素晴らしい合唱が聞こえてきたんです。
エッ?と思って窓からいたら兵隊さんが合唱しながら行進しているの。
サンタルチアの合唱が。
あんなに感激したことは初めてだった。
だからきっと私のピアノにも影響されて『ヨーロッパの音楽をやりましょう』なんてことになったんじゃないかしら」
2ヵ月後の4月、岡山県の高等女学校に入学した。
敵国の音楽を演奏することは憚られていたため、フジ子は毎日、みんなが帰った後、学校のピアノに向かい、練習を続けた。
すると意外な変化が起こった。
「いろんな兵隊さんが、私のピアノを聴いて感激して。
ある方は教室に入ってきて黒板に『愛しのフジちゃん、ピアノが素晴らしい』って白墨で書いてくれたのを思い出します。
彼女は外国の音楽をやっているのか、結構いいねと思ったらしくて、あるとき家にいたら素晴らしい合唱が聞こえてきたんです。
エッ?と思って窓からいたら兵隊さんが合唱しながら行進しているの。
サンタルチアの合唱が。
あんなに感激したことは初めてだった。
だからきっと私のピアノにも影響されて『ヨーロッパの音楽をやりましょう』なんてことになったんじゃないかしら」
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初恋をしたのも、このときだった。
「私、戦争中に岡山に疎開したの。
日本の兵隊がたくさん小学校に駐屯していた。
その中の1人が私の初恋の人なのよ。
私よりずっと年上だったから、もう亡くなったらしいですけど、プックリした日本人よ。
笑ったことは1度もなかったわ。
いつも憂鬱そうな悲しい顔をしていた.
1回だけ彼がしゃべった言葉は、『きょうはピアノを弾かないんですか』って、私に、廊下でお会いしたときに。
私は一言も彼にしゃべらなかった。
それで終わっちゃったんです。
終戦になっていってしまったから」
「私、戦争中に岡山に疎開したの。
日本の兵隊がたくさん小学校に駐屯していた。
その中の1人が私の初恋の人なのよ。
私よりずっと年上だったから、もう亡くなったらしいですけど、プックリした日本人よ。
笑ったことは1度もなかったわ。
いつも憂鬱そうな悲しい顔をしていた.
1回だけ彼がしゃべった言葉は、『きょうはピアノを弾かないんですか』って、私に、廊下でお会いしたときに。
私は一言も彼にしゃべらなかった。
それで終わっちゃったんです。
終戦になっていってしまったから」