1980年にドラフト1位で阪神タイガースに入団
中田良弘は、1959年4月8日生まれの神奈川県横浜市出身。横浜高等学校、亜細亜大学(中退)、日産自動車を経て、1980年にドラフト1位指名で阪神タイガースに入団します。同期には、ドラフト2位指名で興南高等学校から入団した渡真利克則がいました。
中田は、1年目の1981年から即戦力として起用され、4月8日の広島戦で初登板。中継ぎとして登場し、2回無失点の好投を見せます。さらに、4月11日の巨人戦では、先発登板し、9回1失点の完投。しかし、味方打線が完封を喫し、好投空しく負け投手となってしまいます。その後は、先発としてKOされる試合が続いたため、中継ぎ、抑えに転向して活躍するようになります。
中田は、1年目の1981年から即戦力として起用され、4月8日の広島戦で初登板。中継ぎとして登場し、2回無失点の好投を見せます。さらに、4月11日の巨人戦では、先発登板し、9回1失点の完投。しかし、味方打線が完封を喫し、好投空しく負け投手となってしまいます。その後は、先発としてKOされる試合が続いたため、中継ぎ、抑えに転向して活躍するようになります。
新入部員140人が1年で18人!阪神ドラ1指名の瞬間その場にいたのは?【中田良弘さんコラボ2話】
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1981年の4連勝
実は、18連勝の連勝記録が始まったのも、ルーキーイヤーのこの年、1981年です。
シーズン後半は抑えとしての起用が多くなり、同点の場面やリードされている場面で登板します。その結果、7月21日から8月15日まで4連勝。この間の戦績は次の通りです。
8試合登板
4勝0敗1セーブ
14回投球 自責点2
防御率1.29
特に、7月21日の広島戦、8月15日の大洋戦では、味方打線が9回裏に勝ち越し、サヨナラゲームで勝ち投手となりました。
最終的に、1981年の投手成績は、6勝5敗8セーブ 防御率3.30。
新人王こそ、巨人の原辰徳に獲得されましたが、チームの5年ぶりAクラスに大いに貢献しました。
シーズン後半は抑えとしての起用が多くなり、同点の場面やリードされている場面で登板します。その結果、7月21日から8月15日まで4連勝。この間の戦績は次の通りです。
8試合登板
4勝0敗1セーブ
14回投球 自責点2
防御率1.29
特に、7月21日の広島戦、8月15日の大洋戦では、味方打線が9回裏に勝ち越し、サヨナラゲームで勝ち投手となりました。
最終的に、1981年の投手成績は、6勝5敗8セーブ 防御率3.30。
新人王こそ、巨人の原辰徳に獲得されましたが、チームの5年ぶりAクラスに大いに貢献しました。
【中田良弘 成績】阪神ドラフト1位で入団。躍動感あふれるフォームで1年目の抑えのシーンは見もの!連勝記録が途切れた85年はキャリアハイの12勝の成績でタイガース優勝に貢献。通算で連勝連敗の多い投手だ
【中田良弘 成績】阪神ドラフト1位で入団。躍動感あふれるフォームで1年目の抑えのシーンは見もの!連勝記録が途切れた85年はキャリアハイの12勝の成績でタイガース優勝に貢献。通算で連勝連敗の多い投手だ
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1982年の1勝
さらなる活躍が期待された1982年は、右肩痛でシーズンを棒に振ります。
唯一の登板が、1982年の最終戦となった、10月16日の広島戦。先発の大町を4回からリリーフし、4イニングを無失点に抑えます。チームは勝利し、中田は勝ち投手に。
1982年の戦績は次の通り。
1試合登板
1勝0敗
4回投球 自責点0
防御率0.00
唯一の登板が、1982年の最終戦となった、10月16日の広島戦。先発の大町を4回からリリーフし、4イニングを無失点に抑えます。チームは勝利し、中田は勝ち投手に。
1982年の戦績は次の通り。
1試合登板
1勝0敗
4回投球 自責点0
防御率0.00
1983年の0勝
1983年は勝敗の記録こそなかったものの、中継ぎとして18試合に登板しました。しかし、そのほとんどが、相手チームに大きく点差をつけられた、いわゆる敗戦処理の登板。
中田は、この年はリリーフしても打たれることが多く、防御率が7.66。敗戦処理のため、勝ちはつかないが負けもつかない。どんなに投球内容が悪くても、連勝記録が途絶えることのない不思議なシーズンでした。
1983年の戦績は次の通り。
18試合登板
0勝0敗
24 2/3回投球 自責点21
防御率7.66
中田は、この年はリリーフしても打たれることが多く、防御率が7.66。敗戦処理のため、勝ちはつかないが負けもつかない。どんなに投球内容が悪くても、連勝記録が途絶えることのない不思議なシーズンでした。
1983年の戦績は次の通り。
18試合登板
0勝0敗
24 2/3回投球 自責点21
防御率7.66
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1984年の4連勝
1984年も中継ぎとしての登板が中心で、前年を超える30試合に登板しました。しかし、基本的には、リードされている場面がほとんどで、きっちり抑えて味方の援護を待つこともあれば、さらに追加点を奪われてそのまま負けになることもありました。
この年の4勝は、味方が逆転してくれた試合が2試合、チームが勝っているものの、先発の工藤が早々に降板した後をリリーフして勝ち投手になった試合が2試合でした。
1984年の戦績は次の通り。
30試合登板
4勝0敗
47 2/3回投球 自責点25
防御率4.72
この年の4勝は、味方が逆転してくれた試合が2試合、チームが勝っているものの、先発の工藤が早々に降板した後をリリーフして勝ち投手になった試合が2試合でした。
1984年の戦績は次の通り。
30試合登板
4勝0敗
47 2/3回投球 自責点25
防御率4.72
年俸公開は是か非か?【中田良弘さんコラボ1話】
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1985年の9連勝
そして、迎えた1985年。この年は、先発陣がKOされることが多く、中田は中継ぎとしてたびたび起用されます。開幕5試合目で、この年の初勝利。5月にも2勝を挙げ、中継ぎながら早々に3連勝を記録します。好不調の波はあるものの試合を作っていたこと、また、先発陣の補強が必要だったことから、中田は6月から先発ローテーションの一員に起用されました。
スライダーで打たせて取る投球にモデルチェンジ。中継ぎで3連勝すると、先発に配置転換された。打線の援護が爆発的だったことも確かだが、だからと言って打たれまくっていたら勝利はない。6月21日の大洋戦(横浜)で肩を痛めて以来、初の完投勝利を挙げると、粘り強いピッチングを続けた。
6月15日の大洋戦。ルーキイヤーの1981年以来、4年ぶりに先発登板し、6回を1失点に抑えて勝利。そして、6月21日の大洋戦では、9回1失点の完投勝利を記録します。中田の先発起用が成功したことで、調子が落ちてきたチームを首位争いに踏みとどまらせた、と言っても過言ではないでしょう。
その後、中田は、8月11日の中日戦で9連勝を記録。ついに、1981年7月21日から1985年8月11日にかけて、足掛け4年で18連勝を達成しました。
8月17日の広島戦では、敗北を喫しますが、実は8月28日の同じく広島戦で、リベンジを果たすかのように、現役時代唯一の完封勝利を挙げています。
連勝記録が途絶える前までの戦績は次の通り。
19試合登板
9勝0敗
72 2/3回投球 自責点32
防御率3.96
最終的に、1985年の投手成績は、12勝5敗 防御率4.23。
チームの21年ぶりのリーグ優勝に大いに貢献しました。
その後、中田は、8月11日の中日戦で9連勝を記録。ついに、1981年7月21日から1985年8月11日にかけて、足掛け4年で18連勝を達成しました。
8月17日の広島戦では、敗北を喫しますが、実は8月28日の同じく広島戦で、リベンジを果たすかのように、現役時代唯一の完封勝利を挙げています。
連勝記録が途絶える前までの戦績は次の通り。
19試合登板
9勝0敗
72 2/3回投球 自責点32
防御率3.96
最終的に、1985年の投手成績は、12勝5敗 防御率4.23。
チームの21年ぶりのリーグ優勝に大いに貢献しました。
野球解説者として活躍中!
その後、中田は、1990年にも45試合に登板し、10勝7敗6セーブと大活躍。引退後は、主にサンテレビやデイリースポーツの野球解説者として、関西ではおなじみの顔となっています。