80年代後半以降、セリーグには「おがた こういち」が二人存在していました。
巨人の「緒方耕一」と広島カープの「緒方孝市」。
彼らは名前だけでなく、偶然とは思えぬほど色々と似通った点がありました。
そんな彼らの経歴を追いつつ、比較してみます。
巨人の「緒方耕一」と広島カープの「緒方孝市」。
彼らは名前だけでなく、偶然とは思えぬほど色々と似通った点がありました。
そんな彼らの経歴を追いつつ、比較してみます。
「巨人・緒方耕一」と「広島カープ・緒方孝市」のプロ入りまで
この二人、同い年でプロ入りも同じ87年、しかも九州出身。
巨人・緒方耕一
熊本県立熊本工業高等学校時代は1番・遊撃手を務め、3年時には甲子園大会へ春夏連続で出場。チームメイトにエースの永野吉成、二番手投手の木村重太郎、外野手の杉本拓也(近鉄バファローズからドラフト6位指名を受けるも入団拒否)がいた。
1986年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から6位指名を受け入団。
広島カープ・緒方孝市
via home-tv.co.jp
佐賀県立鳥栖高等学校では3年春の九州大会でベスト8、夏は全国高等学校野球選手権佐賀大会でベスト4。
1986年のドラフト会議で広島東洋カープが3位指名で交渉権を獲得し契約金3000万円、年俸360万円(金額は推定)で入団合意した。
プロ入り後の二人
巨人・緒方耕一
via ameblo.jp
プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、3年目に一軍初昇格。
89年には規定打席には到達しませんでしたが3割を打ちましたし、92年も規定打席に達し、.286打っている
広島カープ・緒方孝市
プロ入り直後に外野手へ転向。1988年に一軍出場を果たし、1989年オフにペニンシュラ・パイロッツへ野球留学した。1991年には102試合に出場し、日本シリーズでも先発メンバーとして出場するなど、早くから期待を集めるが、毎年のように怪我に泣かされていた。
1995年には母が死去する不幸に見舞われたが、悲しみを乗り越えて打撃でも開眼し、アキレス腱断裂によって離脱した前田智徳の穴を埋め、レギュラーに定着。監督の三村敏之は「緒方の母は緒方を二度生んだ」と発言、話題となった。
お互い走りのスペシャリストだった
巨人・緒方耕一
プロ入り初ホームランがランニングホームラン。