この記事の目次
「受けた恩は石に刻んで、与えた恩は水に流す」
「恩は返すものでなく送るものだと思っています。」
営業の腕に覚えのある猛者があらゆる業界から集う生命保険業界。
かつてプルデンシャル生命保険で「伝説の保険営業マン」とまで呼ばれた小林さんは、トップ営業マンの地位をあっさり捨てたわずか2年後、今度は自身の率いるメンバーをトップ営業チームに育てて再びトップに。
しかし、更にその2年後には生命保険業界を辞めて異業種で独立します。
冒頭の言葉は、そんな小林さんの座右の銘。
一体どのようにしてトップセールスの座を勝ち取ってきたのか、ミドルエッジ編集部(ミド編)は小林さんの半生を伺って参りました。
かつてプルデンシャル生命保険で「伝説の保険営業マン」とまで呼ばれた小林さんは、トップ営業マンの地位をあっさり捨てたわずか2年後、今度は自身の率いるメンバーをトップ営業チームに育てて再びトップに。
しかし、更にその2年後には生命保険業界を辞めて異業種で独立します。
冒頭の言葉は、そんな小林さんの座右の銘。
一体どのようにしてトップセールスの座を勝ち取ってきたのか、ミドルエッジ編集部(ミド編)は小林さんの半生を伺って参りました。
東京の下町育ち、親に「置いて行かれた」学生時代
「東京の下町に生まれました。当時の下町といえば4畳半のアパートに家族暮らしとか雑多な環境でしたね。そんな中、私の家は父親が工場を経営していて比較的裕福でした。末っ子で何不自由なく育ててもらい、小学校時代は勉強もスポーツも出来た優等生(笑。父親が生粋の職人上がりだったため、息子に学をつけさせたかったのか中学からは早稲田実業学校に通うこととなります。
ところが中学3年のときに父親が工場を畳むことになり、両親は東京の下町から静岡県の伊東市に移住することに。結果、私は東京に残る選択をしたため”置いて行かれた”ような環境となりました。
中学では柔道部に入っていましたが、このことを機に辞めてしまって成績もガタ落ち。自炊はおろか洗濯すらままならない環境で寂しさを感じながら日々を送っていました。」
ところが中学3年のときに父親が工場を畳むことになり、両親は東京の下町から静岡県の伊東市に移住することに。結果、私は東京に残る選択をしたため”置いて行かれた”ような環境となりました。
中学では柔道部に入っていましたが、このことを機に辞めてしまって成績もガタ落ち。自炊はおろか洗濯すらままならない環境で寂しさを感じながら日々を送っていました。」
-年代にして1970年代後半から80年ごろですね。時代や環境、お聞きした境遇からはつい「非行」に走ったのではと連想してしまいます。
「土地柄はまさに”金八先生”さながらの地域ですからね。高校には進学した人のほうが少ない、そんな環境。両親と離れた後は地元の友達とつるんでいましたよ。ただ、とはいえ親の愛情は十分に感じていたので幸いにも不良になることはなかったです。両親とは電話で頻繁にコミュニケーションとっていたんですよ。」
柔道からラグビーへ、バイトにも精を出した大学2年まで
-高校、大学と早稲田に進んでいらっしゃいます。学生時代はどのように過ごされましたか?
「高校進学して最初は帰宅部だったのですが、高2のときにラグビー部へ入れてもらいました。一方で生活費を稼ぐためにアルバイトはけっこうやりました。長く続いたのが御徒町のカラオケスナックで司会のアルバイト。ここは友達のオバさんがママだったのです(笑。それから水道工事の土方に引っ越し屋さん。豪雪の日にエレベーターのない団地の5階へ荷物を運ぶのは本当にキツかったですね。
早稲田大学に進学してもラグビーは続けました。ただ、大学2年まではそれなりにしか取り組んでいませんでした。さしたる目標意識もなく、お荷物部員だったでしょうね。」
早稲田大学に進学してもラグビーは続けました。ただ、大学2年まではそれなりにしか取り組んでいませんでした。さしたる目標意識もなく、お荷物部員だったでしょうね。」
-「大学2年まで」ということは、そこでターニングポイントを迎えるような出来事が?
「このままではいけない!」大学3年で奮起
「ひとつには大学2年最後の試合がありました。自分のプレーの不甲斐なさ…、周囲から罵声を浴びせられて奮起する起点となった試合なんです。
大学3年になるとき、当時のラグビー部キャプテンとマネージャーに家庭の事情を話して入寮させてほしいと訴えました。東伏見にある早稲田大学の寮には一軍や二軍、地方出身の有望選手だけしか入れないのですが、そこを直談判しまして。
また、両親にもアルバイトを辞めてラグビーに打ち込みたいとわがままを言わせていただきました。」
大学3年になるとき、当時のラグビー部キャプテンとマネージャーに家庭の事情を話して入寮させてほしいと訴えました。東伏見にある早稲田大学の寮には一軍や二軍、地方出身の有望選手だけしか入れないのですが、そこを直談判しまして。
また、両親にもアルバイトを辞めてラグビーに打ち込みたいとわがままを言わせていただきました。」
-まるで「スクールウォーズ」のような…。
「ええ、当時はスクールウォーズが大人気を博していましたね(笑。大学3、4年の時にはもう、ひたすらラグビーに打ち込む生活をしました。”とにかく一試合でもいいから試合に出たい”と。
卒業時にはラグビー部の2軍にまで上がることが出来ました。当時は大学ラグビーNo.1だった早稲田大学の2軍に。この2年間での気持ちの変化は大きかったんだと思います。
そして社会人になるわけですが、就職はもうどこでも良かったんです。」
卒業時にはラグビー部の2軍にまで上がることが出来ました。当時は大学ラグビーNo.1だった早稲田大学の2軍に。この2年間での気持ちの変化は大きかったんだと思います。
そして社会人になるわけですが、就職はもうどこでも良かったんです。」
「社会に出たら、自分の手で日本一になりたい」
「もともと先生になりたかったんですが、大学3、4年の2年間で考えが変わっていたんですね。”社会に出たら、自分の手で日本一になりたい”という欲が芽生えていました。
自分の得意なことを見つけて、誰よりも努力をすれば日本一になれると。そしてJTBがどんな会社なのかすら分からないままに就職しました(笑。」
自分の得意なことを見つけて、誰よりも努力をすれば日本一になれると。そしてJTBがどんな会社なのかすら分からないままに就職しました(笑。」
「日本一になる」ただそれだけを決意してJTB入社
-壮大な志を掲げてJTBに入社されました。入社後はどのような業務だったのでしょう?
早稲田大学卒、4年間ラグビー部に所属しJTBに入社。
トップ営業マンの地位を獲得した後にプルデンシャル生命保険へ転職。
トップ営業マン、トップ営業マネージャー、支社長と歴任した後に独立。
現在は株式会社アイ・タッグ代表取締役として活躍。