「営業品目は”社員旅行””企業が取引先を招待する招待旅行”が主でした。最初は店内の窓口業務から始まり、やがて外回りの営業に出るようになりました。新人の頃はどこからも相手にされませんでしたよ、一日に30社くらい飛び込み営業して一社も相手にしてくれない、なんて日もありました。」
ラグビー部の助っ人が縁で2年目にしてトップ営業マンに!
「たまたまある出版社のラグビー部の試合に助っ人で出た縁があって、その出版社にはよく遊びに行ってたんですよ(笑。ある時”お得意様の書店様を招待する旅行を企画したいのだけど”という話をもらいまして。それがきっかけで”小林のところで旅行の企画や添乗もやってくれるんだ”という話が広まり、一気に旅行がとれだし数字が上がるようになりました。」
「2年目だった1989年、当時の社名が交通公社からJTBに変わったんです。そのときの出版物に対する企業広告予算がその出版社に任されたんですよ。出版社からすると”その恩返しをしなくては”というわけで、旅行の仕事が全部自分に。おかげで
2年目にはいきなりトップ営業マンになっていました。」
「その後もラグビーの縁を中心に仕事を創っていきました。4年目にはチームも任されて、それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの出世でした。」
「2年目だった1989年、当時の社名が交通公社からJTBに変わったんです。そのときの出版物に対する企業広告予算がその出版社に任されたんですよ。出版社からすると”その恩返しをしなくては”というわけで、旅行の仕事が全部自分に。おかげで
2年目にはいきなりトップ営業マンになっていました。」
「その後もラグビーの縁を中心に仕事を創っていきました。4年目にはチームも任されて、それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの出世でした。」
社会人6年目、プルデンシャル生命保険へ
営業の猛者がしのぎを削る世界への挑戦
「社会人6年目の頃、自分のことを見つめなおす機会があって、ちょうどその時にプルデンシャル生命からヘッドハンティングを受けました。
当時”生命保険はイメージだけで毛嫌いされている”という自分なりの考えがあり、また多くの業界から営業のプロが転職して集まっていたため”よし、ここでもう一度日本一になるんだ”と強く思ったんです。28歳での転職でした。」
当時”生命保険はイメージだけで毛嫌いされている”という自分なりの考えがあり、また多くの業界から営業のプロが転職して集まっていたため”よし、ここでもう一度日本一になるんだ”と強く思ったんです。28歳での転職でした。」
9年かけて夢だった日本一の座に
「提案するものは変わりましたが、まずはJTB時代からお世話になっている出版社の方々がお客様になってくれました。気がつけば900名ほどの社員のうち約100名の方が自分のお客様になっていました。
結果、9年かけてプルデンシャル生命保険の国内トップセールスになることが出来ました。当時は経済スペシャル番組(テレビ東京)から密着取材を受けて特集が組まれたり”トップ営業マン”という肩書で様々な媒体に出させていただきましたね。」
結果、9年かけてプルデンシャル生命保険の国内トップセールスになることが出来ました。当時は経済スペシャル番組(テレビ東京)から密着取材を受けて特集が組まれたり”トップ営業マン”という肩書で様々な媒体に出させていただきましたね。」
プレイヤーとして9年、マネージャーとして2年で到達したセールス日本一
「トップ営業マンがマネジメント(管理職)側に就くことは、当時はほとんどありませんでした。でも営業としてトップに立たせていただくことが出来たので、次は会社への恩返しと考えたときに、マネージャーになることを決意して、”再現性の高いチームを作ろう”と考えたんです。
マネージャーに就任させていただく際、所信表明には全社の幹部が集まってくれました。そこで所信を伝えたのですが、2年でトップチームを作りますと。」
マネージャーに就任させていただく際、所信表明には全社の幹部が集まってくれました。そこで所信を伝えたのですが、2年でトップチームを作りますと。」
プレイヤー時代の自分を捨てる
-9年間で築き上げたトップセールスの極意。マネージャーに立場をかえた後はそのノウハウを伝授されたのでしょうか?
「オーソドックスなチームを作りたい、誰かが突出した成績をあげるというよりもメンバーが互いに喜び合えるようなチームをと考えていました。自分の成績と比較するようなことはせず、プレイヤー時代の自分は捨てました。マネージャーとして貫いたのはとにかく”相手の立場で考える”ということでした。」
「チームにスカウトしたメンバー10人は、トラブルで入社後すぐ退職したものを除き、自分が辞めた後も10年間誰も辞めませんでした。フルコミッションの世界で戦う9人を引っ張ってきてメンバーをどう育てていくのかといったら”目の前のお客様の立場で徹底的に考える”という点に尽きるんです。」
「営業としては常に”見込み客との出会い”が大切。見込み客に出会う、機会を得る、紹介をいただくといったプロセスに恵まれるためには、自分自身が真に魅力的であるよう成長を続けなくてはなりません。」
「営業としては常に”見込み客との出会い”が大切。見込み客に出会う、機会を得る、紹介をいただくといったプロセスに恵まれるためには、自分自身が真に魅力的であるよう成長を続けなくてはなりません。」
2年でチームをトップセールスへ、その後、支社長に就任
-トップセールス、トップマネージャーという実績から2007年にはプルデンシャル生命保険で支社長に就任なさいました。
支社長を2年半で辞任、40代にして異業種での独立
「ええ、そして2年半支社長を勤めた後にプルデンシャル生命を辞めることになるんです。当時、自分の判断に対しては妻以外のほぼ全ての人に反対されました。
しかし、真剣に生命保険と向き合いお客様と向き合ってきた自分は、図らずもお客様の死亡保険金をお届けする機会も多く経験することとなりました。
”人はいつか死ぬ”という現実、そして与えられた生を全うするために自分には何が出来るか、会社に恩返しすることももちろん、しかしより多くの人に対して力になれることはないだろうか、と。」
しかし、真剣に生命保険と向き合いお客様と向き合ってきた自分は、図らずもお客様の死亡保険金をお届けする機会も多く経験することとなりました。
”人はいつか死ぬ”という現実、そして与えられた生を全うするために自分には何が出来るか、会社に恩返しすることももちろん、しかしより多くの人に対して力になれることはないだろうか、と。」
ところが、小林さんはあっさりとその地位から降りてしまいます。
いったい何故?