マッチ、トシちゃんだけでない「御三家」と呼ばれた芸能人・声優さんたち
2017年8月19日 更新

マッチ、トシちゃんだけでない「御三家」と呼ばれた芸能人・声優さんたち

ジャニーズのアイドルなどをはじめ「御三家」と呼ばれた人々をご紹介します。昭和(平成もあります)の人気スター・アイドルたちをはじめ、ロック御三家、大ヒットしたアニメの声優さんまで、今回は芸能の様々な「御三家」を振り返ってみました。

56,231 view
「御三家」ですが、調べてみまして「こんなにあったの?!」と思ったほどありましたので、早速に行きましょう‥‥と、その前に、「御三家」という言葉の由来も知っておきたいものです。

そもそも「御三家」とは?

御三家(ごさんけ)とは、ある分野で最も有力な、最も有名な、最も高く格付けされた、あるいは最も人気がある3者を総称する際の表現のひとつ。
江戸時代に徳川将軍家に連なる尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の3家が「御三家」と呼ばれて並みいる諸大名の中でも特に別格扱いされていたことに因んだ表現である。
お馴染みの「水戸黄門」

お馴染みの「水戸黄門」

テレビの時代劇でもお馴染みの「水戸黄門」水戸光圀も、水戸徳川家、御三家だったのですね!
(黄門様は、これもいろんな俳優さんが演じていらっしゃいますが、昭和の黄門様で思い出すのが、なんといっても東野英治郎さんだったので、東野さんが写っている画像で‥‥!)
それでは、今回は芸能界・アニメ界などにおいて「最も有力」「最も人気のある」と言われた人々、グループなど、様々な「御三家」を紹介します。

元祖・御三家

橋幸夫

橋幸夫

1960年に「潮来笠」でビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からデビュー、同曲で第2回日本レコード大賞新人賞を受賞し、「第11回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たす。
紅白歌合戦には1976年の「第27回NHK紅白歌合戦」まで17回連続出場、通算19回出場した。
後にデビューした舟木一夫、西郷輝彦とともに「御三家」としてアイドル的な人気を集める。実はビクターからデビューする以前にコロムビアのオーディションに落ちており、もしコロムビアからデビューしていたら、舟木一夫という芸名になる予定であったと後に述べている。神戸芸能社で仕事をした時期もある。
(Wikipedia)
舟木 一夫

舟木 一夫

当初は舟木和夫という芸名になる予定だったが、舟木自身の希望で一夫になった[1]。のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、同じ時期にデビューした西郷輝彦、橋幸夫とともに「御三家」として人気を集める。青春ソングの定番「高校三年生」に代表されるように、学生時代を題材にした歌謡曲のほか、『銭形平次』のテーマソングのように、時代モノも数多く歌っている。また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。
(Wikipedia)
西郷 輝彦

西郷 輝彦

1964年2月、クラウンレコードより「君だけを」でデビュー。
同曲は60万枚を売り上げた。「十七才のこの胸に」もヒットし、両曲でその年の第6回日本レコード大賞新人賞を獲得。
同年「十七才のこの胸に」で映画デビュー。しかし事務所が解散し東京第一プロダクション(現 第一プロ)へ移籍するも同社を退社した相澤秀禎マネージャー(業務成績不振及び素行不良が原因で退社)の画策により1965年にクラウンレコード、太平洋テレビなどと共同出資(西郷は50%)によって誠和プロを設立し当面はクラウン・レコード宣伝部に事務所を置き社長業を兼ねる。
ビート歌謡曲歌手として大人気であっただけでなく多くの映画に主演し、1960年代を代表する青春スターであった。(Wikipedia)
元祖・初代の御三家は、1960年代のアイドル、橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんでした。
意外なエピソードとして、橋さんは当時、「舟木一夫」という芸名になるはずだったとか‥‥!
そうだったら、ほんとの舟木さんは、なんて芸名になってたのでしょう?
ちょっと気になるエピソードでした。
2000年頃には、お三人さんそろって「水戸黄門」のテーマソングも歌っていたことも‥‥!

新・御三家

郷ひろみ

郷ひろみ

1971年、銀座であった映画オーディションでジャニー喜多川にスカウトされてジャニーズ事務所へ所属する。
フォーリーブスのバックダンサーとして出演して多くのファンを獲得する。
芸名は、ファンからの声援「レッツゴーひろみ」から借名して「郷ひろみ」になり大阪でファンクラブが発足する。
1972年1月2日、NHK大河ドラマ『新・平家物語』に平清盛の弟、経盛役で俳優デビュー(現在までNHK大河ドラマ合計4作品に出演) する。
4月3日 - 9月25日、フジテレビ系の森田健作主演・青春ドラマ『青春をつっ走れ』と『あしたに駈けろ!』に連続して出演する。
8月1日、CBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)所属の歌手としてデビューする。
9月25日、デビュー曲「男の子女の子」がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞・新人賞を受賞する。
1973年、ブロマイド年間売上実績No.1となり、西城秀樹、野口五郎と共に新御三家と呼ばれ、一躍トップアイドルの仲間入りを果たす。
(Wikipedia)
西城秀樹

西城秀樹

1972年3月25日、ビクター音楽産業 (RCA) よりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる。
1973年6月25日、「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれる。
「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。
絶唱型と言われる歌唱法を披露。
『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。
1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露。
「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。
「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。
『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。
(Wikipedia)
野口五郎

野口五郎

1971年5月1日、当初は演歌歌手としてシングル曲「博多みれん」で15歳2か月の若さでデビュー。キャッチフレーズは「青い木の芽の、はだざわり」で売り出した、が、同曲のセールスは全く振るわなかった。
しかし2曲目の「青いリンゴ」からポップス歌手に転向してスマッシュ・ヒット、若い女性ファンの人気を獲得。
1972年12月31日、第23回NHK紅白歌合戦において当時としては最年少(16歳10か月)となる初出場歌手に抜擢されて、「めぐり逢う青春」を歌う。
1973年4月9日、「オレンジの雨」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。
続く「君が美しすぎて」は第3位にランクされ、第24回NHK紅白歌合戦も同曲で出場。
西城秀樹・郷ひろみと共に新御三家と呼ばれて、一躍トップアイドルの仲間入りを果たす。
(Wikipedia)
郷は女の子に間違えられるほどの可愛らしさ、西城は男らしさの中に秘められたセクシーさ、野口は気品のある大人の優しさと、ルックスから放たれる魅力も三者三様で、全国の若い女性の人気を独占した。
俳優としてデビューした歌って踊れるジャニーズ・アイドル系の郷、ロック系のポピュラー音楽を中心にしたダイナミックなステージングの西城、演歌歌手としてデビューした音楽的に繊細な神経を持つギタリストの野口と、スタイルも様々であった。
70年代になると、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんのお三方が、「新・御三家」と呼ばれ人気アイドルとなりました。
上記のWikipediaにも記載されてありますが、三人三様でそれぞれ個性あふれるスタイルでしたね!
そして、この三人の面々は、テレビ・バラエティ「カックラキン大放送」にも、研ナオコさんと出演されていたことも思い出されますね!

新・新・御三家

映画「ブルージーンズメモリー」の「たのきんトリオ」

映画「ブルージーンズメモリー」の「たのきんトリオ」

たのきんトリオ
田原俊彦
近藤真彦
野村義男
Wikipediaなどには載っていないのですが、80年代当時、この「たのきんトリオ」と言われた田原俊彦さん、近藤真彦さん、野村義男さんも「新・新・御三家」と呼ばれていたはずです。
三人ともテレビ・ドラマ「3年B組金八先生」に出演!
そこからとても人気者になりましたね!
歌手、あるいはグループ(野村義男さん)として、それぞれ個々の活動をされていましたが、映画などでは三人一緒に出演されていました。
58 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • T 2020/7/23 23:57

    あれ?新々御三家ならあいざき進也さんと城みちるさんは?

    健司 2019/5/16 11:45

    新御三家と呼ばれた当初のメンバーは西城秀樹の他に伊丹幸雄、田頭信幸の3人だった。このうち田頭だけは全くブレイクしないまま終わった。
    あとマスコミに新新御三家と呼ばれたのは、加納竜、草川祐馬に山本明の3人でこれも山本だけは全くブレイクしなかった。
    上記2つとも短い間の呼称でしかなかったが、この記事に載ってる3者には田原、近藤、野村の3人などメディアから御三家と呼ばれたことはない3人がいる。彼らの名称はたのきんトリオだった。
    中三トリオもそうだけど、一人だけ落ちる歌手がいる場合が多い。

    まを 2018/5/30 13:27

    雑な記事で笑えた。
    たのきんが御三家とか誰の記憶にあるんだろう?
    ならばテクノ御三家の方がよっぽど覚えてる人が多いのに。

    すべてのコメントを見る (3)

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

30年ぶりの復活を果たした【男闘呼組】デビュー当時の出演作品を振り返ってみた!

30年ぶりの復活を果たした【男闘呼組】デビュー当時の出演作品を振り返ってみた!

約30年ぶりに復活し話題を呼んでいる男闘呼組。そんな男闘呼組がまだアイドルだった頃に出演していたドラマや映画について振り返ってみました。さらに、男闘呼組のメンバーを中心に新たに結成されたバンド「Rockon Social Club」についてもチェック!
ハナハナ | 538 view
伝説のグループが続々登場!80年代にデビューしたジャニーズグループ特集

伝説のグループが続々登場!80年代にデビューしたジャニーズグループ特集

今も昔も、国民的アイドルを輩出し続けるジャニーズ事務所。今回は80年代にデビューしたグループのとデビュー曲を振り返っていきましょう。
saiko | 3,629 view
たのきんトリオのよっちゃんこと野村義男率いる「THE GOOD-BYE」がデビュー35周年記念ライブを開催!

たのきんトリオのよっちゃんこと野村義男率いる「THE GOOD-BYE」がデビュー35周年記念ライブを開催!

80年代、ジャニーズ事務所所属のロックバンドとして人気を博した「THE GOOD-BYE」が、デビューを35周年となるのを記念したライブ「THE GOOD-BYE 35th ANNIVERSARY CONCERT TOUR」の開催を決定しました。大阪、名古屋、東京での開催を予定しています。
隣人速報 | 6,817 view
日劇閉館イベントで「スニーカーぶる~す」が上映。近藤真彦が公開の81年当時を振り返り舞台挨拶でコメント

日劇閉館イベントで「スニーカーぶる~す」が上映。近藤真彦が公開の81年当時を振り返り舞台挨拶でコメント

2月4日に閉館するTOHOシネマズ日劇で「青春グラフィティ スニーカーぶる~す」(1981年)が上映され、たのきんトリオの一人として出演していた近藤真彦が舞台挨拶に登壇。1981年の公開当時の想い出を語った。
近藤真彦『ハイティーン・ブギ』。有名作曲家T.Yにより歌唱力UP!?

近藤真彦『ハイティーン・ブギ』。有名作曲家T.Yにより歌唱力UP!?

近藤真彦自身が出演する映画「ハイティーン・ブギ」の主題歌であった『ハイティーン・ブギ』。現在も数多くの名曲を手掛けている作曲家のT.Yによりマジックのように歌唱力がアップしました。一体誰が?どんな事をしたのでしょうか?
モンステラ | 7,715 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト