トリプルスリーを期待されながら、いつしか悪役のイメージが定着した【松永浩美】にまつわる5つの出来事
2016年11月25日 更新

トリプルスリーを期待されながら、いつしか悪役のイメージが定着した【松永浩美】にまつわる5つの出来事

類まれなるスピードと走攻守に渡るセンスのよさでパリーグを代表する三塁手に成長しながら、首位打者にはあと一歩届かなかった松永浩美。晩年はトレードやFAで球団を移籍。本意ではない発言が独り歩きし、悪役のイメージが強い彼の選手生活をひもとくと、プロ野球史に残る記録や出来事の数々がうかびあがってくる。

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松永浩美の球歴は?

島谷金二から受け継いだ栄光の背番号8

島谷金二から受け継いだ栄光の背番号8

阪急ブレーブス時代には当時の上田利治監督に「松永が四番を打つようになったらウチは優勝やろ」と称された期待のホープだった。
松永浩美にまつわる出来事を振り返るうえで、まず彼の球歴を振り返ってみたい。
1960年、福岡県北九州市生まれ。子どものころはサッカー選手だったという。
高校は甲子園出場経験もある古豪・小倉工業高校に進学。野球部に入部し、外野手兼投手を務めたが甲子園に出場することなく、1978年に高校を中退する。
中退後、単身西宮に渡り、阪急ブレーブスにドラフト外で入団しようとするも、野球協約により即入団が認められず、一旦、練習生兼用具係として働いた後、翌1979年に正式に支配下選手となった。
それまでは右打ちだったが、プロ入り後に俊足を生かすため、左打ちに挑戦。当時はまだ珍しかったスイッチヒッターとなる。
プロ入り3年目の1981年、一軍メンバーの仲間入りを果たし、73試合に出場。打席数は少ないながらプロ初ホームランを放つなど、打率0.326をマーク。若手のホープとして期待された。当時阪急の三塁手と言えば勝負強い打撃が売りのベテラン・島谷金二がおり、この年も114試合に出場、23本塁打を放つなど健在ぶりを示していたが、この年すでに36歳となっており、新旧交代の時期が迫っていた。
松永は、翌1982年には遊撃手としての出場も含め128試合に出場。規定打席に到達するも、打率は0.236と前年から大きく下げ、一軍の壁にぶつかっていた。しかし、この年のオフにチームの若返りの方針を受け、島谷が引退。島谷が付けていた背番号8を松永が継承することになり、阪急のホットコーナーは松永に託された形となった。
これに奮起した松永は、翌1983年に打率0.281をマーク。翌1984年には打率0.310、本塁打19本、打点70点をマーク。チームのリーグ優勝に貢献した。
1985年には38盗塁をマークし、初のタイトルとなる盗塁王を獲得。以降も毎年規定打席に到達し続け、打率は常に0.280以上を記録。1988年オフに親会社が阪急からオリックスになってもチームの顔として存在をアピールし続けていた。
大きな転機となったのは、1992年オフの阪神タイガースへのトレードだった。
大きな期待を受けながら故障もあり80試合出場にとどまったにも関わらず、1993年オフには当時まだ日本球界に制度が根付いていなかったFA宣言を行い、阪神に残留することなくダイエーホークスへの移籍を決定。
取材に基づかない偏向的な新聞報道等もあり、阪神ファンを中心とした野球ファンから多くの反感を買った。
移籍したダイエーでは初年度1994年こそ、116試合出場、打率0.314の高打率を残すが、2年目以降は徐々に成績も出場試合数も減少し、1997年のシーズンを最後に、自身、チーム双方合意の上で自由契約となった。
ダイエーを退団したあとは、メジャーリーグへの挑戦を表明。オークランド・アスレチックスの入団テストを受けるが、不合格となり、現役を引退する。

オリックス・ブルーウェーブ 松永浩美 コンバットマーチ - YouTube

オリックス時代の松永浩美の応援歌。かなり演奏のレベル高いです。

松永浩美にまつわる出来事その1「1982年、日本人初!1試合左右両打席での本塁打」

スイッチヒッターと言えば、アメリカメジャーリーグではミッキー・マントルやピート・ローズなど多くの名打者がいるが、日本では松永がプロ入りした1970年代末には、柴田勲や高橋慶彦が活躍していたくらいで、まだポピュラーではなかった。
そんななか、プロに入ってスイッチに取り組んだ松永は持ち前のセンスを生かして頭角を現し、球界の注目を一気に集めることとなったのが、1982年5月15日の日本ハムファイターズ戦である。
この試合、6番三塁で出場した松永は、日本ハムの先発工藤幹夫から左打席で3号ホームランを放つと、8回裏にはリリーフの江夏豊から右打席で4号ホームランを放ち、1試合のなかで、左右両打席でのホームランを記録した。
これは、日本プロ野球では通算5人目6度目の記録。これまではすべて外国人選手によるものだったため、日本人としては初めてとなった。
松永はこれ以降現役を引退するまで通算6回の1試合左右両打席本塁打を記録しており、これは2007年に北海道日本ハムファイターズのセギノールに破られるまで日本記録であった。
スイッチヒッターが左投手と対戦するときは右打席に立つのがセオリーだが、松永は工藤との相性を考え、左打席に立ったという。松永がいかに器用であったかがわかるエピソードだ。
スイッチヒッターならではの記録を樹立

スイッチヒッターならではの記録を樹立

史上最強のスイッチヒッターは松永の代名詞であった。

松永浩美にまつわる出来事その2「1983年8月31日、逆転満塁サヨナラホームラン」

日本のプロ野球の歴史で30数回しか記録されていない、逆転満塁サヨナラホームラン。
しかも、0対3から、いわゆるお釣りなしという理想的な一打。しかし、その裏側には隠れたエピソードがあった。
時は、1983年8月31日、西宮球場で行われた対ロッテ・オリオンズ戦。
実はこの試合、阪急の1番バッター・福本豊の2000本安打、すなわち名球会入りがかかっていた試合として注目されていた。この日、ケガの簑田に代わって3番スタメンを任されていた松永は、
試合は阪急先発の山沖、ロッテ先発の中居ともに好投を続け、9回表を迎えるまで0対0。緊迫した投手戦が続く。9回表、ついに均衡が破れる。前年に三冠王に輝いた4番・落合博満の3ランホームランが飛び出したのだ。しかも、通算100号となるメモリアルアーチだった。残るは阪急の9回裏の攻撃のみ。誰もが勝負は決したと思った。
この年4年目にしてプロ初勝利を挙げながら、その後、5連敗して崖っぷちだったロッテ先発の中居謹蔵も「阪急の攻撃は8番だから大丈夫だ。2000本安打がかかった1番の福本に回るのが気になるくらい」と
しかし、勝負は何が起こるかわからない。9回裏、先頭の8番片岡新之助のなんでもないファーストゴロを、こともあろうか値千金の一打を放った落合が弾いて出塁を許してしまう。
次の途中から右翼に入った9番・柴原実が見事にヒットを放ち、一、二塁のピンチを招く。なんと柴原はこれがプロ初ヒットだった。続く福本は、2000本安打を焦ったか、レフトフライに倒れ一死。だが、中居は続く2番・弓岡敬二郎を四球で歩かせ、一死満塁とピンチを広げてしまう。
ここで打席に立ったのは松永だった。松永はファウルで粘って作ったカウント2ボール・2ストライクからの6球目。中居が投じたフォークボールが抜けたのを見逃さず、右翼席スタンドへ運んだ。逆転サヨナラ満塁ホームラン。
中居はこれ以降1勝を挙げただけでプロでは大成せずに終わった。一方、松永はこれをきっかけにパリーグを代表するバットマンの位置を確立する。

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松永浩美にまつわる出来事その3「1988年、首位打者争いに水を差す敬遠攻撃に抗議のバット投げ!」

1988年、阪急ブレーブス最後の年。松永はBクラスに沈むチームの不調とは裏腹にヒットを打ち続け、シーズン終盤においてもロッテ・オリオンズの高沢秀昭と激しく首位打者を争った。
高沢は、10月19日に行われたチーム125、126試合目の近鉄バファローズとのダブルヘッダー。いわゆる今も語り継がれる名勝負「10.19」の2試合目で、近鉄の優勝の望みを打ち砕く同点ソロホームランを阿波野秀幸から放って、打率を0.327とし、松永に4厘差をつけたのを最後に、残りの4試合をすべて欠場。
一方、松永に残されたのは3試合。しかし、その3試合すべてが高沢の所属するロッテとの試合だったのが、松永にとって最大の不幸だった。
10月22日の1試合目。3番に入った松永は1打席目、2打席目ともにヒットを放つと、打率は0.326に上がり、高沢との差はわずか1厘となる。
これを知ったロッテの有藤道世監督は、高沢にタイトルを取らせるため、松永の3打席目から最終の5打席目まで自軍の投手陣に敬遠策を命じる。
翌10月23日はダブルヘッダー。その1試合目の4打席すべて敬遠。2試合目も5打席すべて敬遠策が取られた。
憤懣やるかたない松永は抗議の意味を込め、最後の打席では大きく外れる敬遠のボール目がけてバットを放り投げ、自ら三振に倒れ、シーズン最終打席、いや阪急ブレーブスとしての最後の打席を終えたのだった。

1988 松永 浩美 11打席連続敬遠 怒りのバット投げ 阪急 ブレーブス - YouTube

阪急本拠地の西宮球場ということもあり、勝負をしないロッテベンチへの憤りからスタジアム内は異様なムードに包まれている。抗議の意味か紙テープが球場内に投げ込まれたり、松永がバットを放り投げると観客から声援が飛ぶなどした。

松永浩美にまつわる出来事その4「世界初!3試合連続先頭打者本塁打!」

1992年オフ、松永は阪神タイガースにトレードされる。理由は、V9スタイルのチームプレーを重んじる当時のオリックス監督・土井正三やオリックス球団幹部との確執があったとされる。
1993年、心機一転を図った松永は、前年シーズン終盤まで優勝を争い、その手腕が評価されていた「中村勝広監督を男にしたい」と発言。その実績からもファンの期待を集めていた。
開幕戦、3番三塁に座るといきなり5打数5安打の固め打ち。チームは惨敗したが、いいスタートを切ったかに見えた。しかし、開幕2戦目にしてケガをし、3戦目は途中交代。4戦目には一軍メンバーから名前が消えた。それでも夏場には1番打者として戦線復帰。
迎えた8月20日からの首位・ヤクルトスワローズとの三連戦。ここで松永は世界初の記録をマークする。
8月20日、1回表打席に立った松永は、左打席でヤクルト先発の伊東昭光からライトスタンド中段へ4号ソロホームランを放つと、翌21日はサウスポーの石井一久から右打席でライトスタンド最前列へ5号ホームラン。さらに、22日、今度は荒木大輔から左打席でバックスクリーンに飛び込む6号ホームランを放ち、なんと3試合連続の先頭打者ホームラン。
この記録はアメリカ大リーグも例のない世界初の記録だった。
ところが、記録を達成した試合で、松永はまたもケガをしてしまう。阪急・オリックス時代は毎年規定打席に到達していた選手が、環境が変わるだけでこうもケガに取りつかれてしまうのか?
チームが逆転サヨナラ負けを喫したこともあり、試合後の松永の反応も鈍く、世界初の記録が生まれた日とは思えない重たい空気が支配していた。

【1993年プロ野球】松永浩美 世界初!3試合連続先頭打者ホームラン! - YouTube

この時の松永の背番号は「02」。阪神に移籍した当初は「2」をつけていたが、前の年まで阪神の「2」をつけていた、スイッチヒッターの先駆け・高橋慶彦がケガや若手の台頭で引退に追い込まれたことを嫌って、0をつけた。現在のNPBのルールでは、支配下登録選手は00・0~99番のうちのどれかにしなければならないため、この「02」背番号は貴重な記録と言える。

松永浩美にまつわる出来事その5「1993年オフ、日本球界初のFA権行使!」

1993年の松永は、上記のとおり短期的に記録を残す活躍はしたが、結局はケガが響き、シーズン全体を通しては不完全燃焼に終わった。さらに、チームは前年とは打って変わって優勝争いすることなくBクラスの4位に沈み、なおかつ松永と交換でオリックスに移籍した野田浩司が新天地で17勝を挙げ、最多勝を獲得する活躍。
ファンにとっては、阪神首脳陣の見る目のなさ、補強下手を呪うとともに、松永にも猛省、そして翌1994年シーズンでのリベンジを期待していた。少なくともファンはそのはずだった。
ところが、阪神首脳陣はそうではなかった。
背景には、この年から制度施行されたFA制度があった。下交渉では、松永は年俸ダウンを提示されたばかりか、球団サイドからは「縁がなかった」という発言が飛び出す始末。
これを聞いた松永は1993年11月3日にFA宣言。テレビ局へのインタビューでは「(阪神ファンに対するメッセージは)ない」、「阪神とは縁がなかった」と回答。松永としてはその日の率直な感情を言葉にしただけだろうが、ファンの神経を逆なでするには十分だった。
もともと「地元の福岡で野球がしたい」という意向も持っていた松永。福岡ダイエーホークスが、阪神よりも好条件で獲得の名乗りを上げると、あっさり移籍を決断する。
同年オフには、のちに駒田徳広(巨人→横浜)、落合博満(中日→巨人)、石嶺和彦(オリックス→阪神)と3選手が宣言、移籍をすることとなるが、宣言も移籍も第1号は松永となった。
FA制度が日本プロ野球でも制度化されるきっかけを作ったのも、ほかならぬ松永だった。ドラフトの有力選手が指名を拒否する事例をみてショックを受け、「もっとプロ野球に夢を」選手会に提案したのだ。
しかし、それが裏目に出たのか、完全にヒール扱いされてしまった松永。
同時に、未来のエース候補・野田を出してまで得た松永がわずか1年でFA退団。何も残らなかったどころか、その後の野田の活躍、そして野田が在籍した1995,1996年のオリックスがリーグ連覇したこともあり、このトレードは阪神ファンの間で未だに悪夢と呼ばれている。
松永のFA騒動は阪神ファンにとって悪夢と呼ばれる野田浩...

松永のFA騒動は阪神ファンにとって悪夢と呼ばれる野田浩司とのトレードがきっかけだった。

松永とのトレードでオリックスに移籍し、エースとして活躍した野田浩司。
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