【川藤幸三】ファンに愛された「春団治」
1968年のドラフト9位で阪神タイガースに入団した藤幸三選手は、入団当時は強肩・俊足で鳴らした外野手であり、主に守備固め、代走としての役割を果たしていましたが、アキレス腱を断裂するという大けがを負い、以降は代打としての出場が主となります。
試合に出場する機会は限られていましたが、その豪快なキャラクターにより、ベンチのムードメーカー役や、英語を全く話せないものの、ランディ・バースなど外国人助っ人選手の話し相手になったり、首脳陣と選手とのパイプ役を果たします。1985年に阪神タイガースが日本一になった際、吉田監督の次に胴上げされたのが川藤選手だったという事が、川藤選手がチームメイトにどれ程慕われていたのかを示していると言えるでしょう。
試合に出場する機会は限られていましたが、その豪快なキャラクターにより、ベンチのムードメーカー役や、英語を全く話せないものの、ランディ・バースなど外国人助っ人選手の話し相手になったり、首脳陣と選手とのパイプ役を果たします。1985年に阪神タイガースが日本一になった際、吉田監督の次に胴上げされたのが川藤選手だったという事が、川藤選手がチームメイトにどれ程慕われていたのかを示していると言えるでしょう。
1986年オールスター代打川藤
代打起用されて長打性のヒット&激走からの…
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川藤選手は1986年、オールスターゲームに、セリーグの吉田義男監督(阪神)の推薦で初出場します。大阪球場での第2戦、代打で起用された川藤選手は左中間にヒットを放ちます。明らかに1塁ベース前でスピードを緩めていた川藤選手でしたが、1塁ランナーコーチを務めていた王貞治巨人監督が、ぐるぐると手を回すのを見て、慌てて急加速。2塁を狙うものの、ベースはるか手前でタッチアウト。このプレーに場内は大爆笑となりました。
川藤幸三 現役最終打席 1986年10月14日(甲子園)
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プロ野球生活18年間で放ったヒットは211本。(通算代打成績は318打数、84安打、11本塁打、58打点、打率.264)。一度もレギュラーに定着することなかったものの、スター選手をしのぐ人気を誇った川藤幸三選手は何度も「クビ宣告」を受けながらもタイガース一筋で18年間のプロ野球生活を送ったのです。
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そんな川藤幸三さんは現在阪神タイガースOB会の会長として、そして野球解説者として活動。川藤さんのコメントはいつもタイガースに対する愛に満ちています。(時に愛するがゆえに厳しいことを言う事もありますが)。
【掛布雅之】ミスタータイガースは永遠に
掛布雅之選手は、学生時代はほぼ無名に近い選手であり、ドラフト6位指名で入団した当時は誰も掛布選手が後に「ミスタータイガース」と呼ばれる事になるとは想像ができなかったことでしょう。そんな入団時の低い評価を猛練習によって実力をつけ、高卒1年目にして1軍に定着。1976年にベストナインを獲得。1979年には、掛布選手の前に「ミスタータイガース」と呼ばれていた田淵幸一選手が移籍した事に伴い、チームの主砲としての役割を担う事になります。
【阪神ホームラン集】ミスタータイガース★掛布雅之
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1982年と1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、田淵に代わる新たな「ミスタータイガース」として呼ばれるようになった掛布選手は1985年の阪神タイガース初の日本一に大きく貢献します。ところが翌年の1986年シーズン度重なる怪我により、長期離脱を経験すると、以降成績は急降下。腰痛にも悩まされ、結局1988年シーズン限りで引退することになります。
ミスタータイガース 掛布雅之 引退試合 昭和63年10月10日
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引退に際して、数球団からのオファーがあったと掛布選手自身はのちに述べています。それでも「ミスタータイガース」と呼ばれた事に対する責任を果たすかのように、掛布選手は阪神一筋での引退を選びました。掛布選手の引退試合は、上の動画にある様に球場に詰めかけた阪神ファンが涙を流し、引退を惜しむ引退試合となったのです。
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「ミスタータイガース」掛布雅之にもう一度、縦じまのユニフォームを着て欲しいという熱望が叶えられ、2016年に阪神の二軍監督に就任。若手を熱血指導する毎日を送っています。
【和田豊】タイガース一筋のいぶし銀
和田豊選手は1984年オフに行われた、ドラフト会議で阪神タイガースに3位で指名され入団します。この年限りで引退した、名手・藤田平選手の後継者と期待されたため、それまで藤田選手がつけていた背番号6を与えられました。入団1年目の1985年シーズンから和田選手は、守備固め、内野の控え選手として一軍に定着。1985年に阪神タイガース初の日本一も経験します。硬い守備と、勝負強く三振の少ない打撃には定評があり、バース、掛布、岡田というチームの主力が去り「暗黒時代」と言われていた阪神タイガースをチームリーダーとして引っ張りました。
和田豊現役時代映像&まとめ
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1994年に自己最高の成績を残した和田選手は、シーズン終了後の契約更改で阪神の生え抜き選手としては初の1億円プレーヤーとなります。その芸術的な流し打ちや、追い込まれてからの勝負強さを武器に「安打製造機」として活躍した和田選手は2001年に選手兼任で打撃コーチに就任します。しかし選手との両立は困難となり、この年限りで引退します。
和田選手の引退試合となった2001年10月1日は、この日が最後の指揮となった巨人の長嶋監督に花束が贈られたのち、和田選手のスピーチが行われました。
その際、タイガースファン、球団関係者、チームメイトだけではなく、グランド整備をしている阪神園芸さんら裏方への感謝の言葉が述べられ、球場からは大きな拍手が起こりました。
和田選手の引退試合となった2001年10月1日は、この日が最後の指揮となった巨人の長嶋監督に花束が贈られたのち、和田選手のスピーチが行われました。
その際、タイガースファン、球団関係者、チームメイトだけではなく、グランド整備をしている阪神園芸さんら裏方への感謝の言葉が述べられ、球場からは大きな拍手が起こりました。