2016年11月25日 更新

プロ野球選手の歴代年俸 年度別1位はこの人だ!70年代〜90年代

プロ野球選手と言えば、年俸が高額で他のスポーツより高い印象がありますよね。そして、落合博満の契約更改は有名な話ですよね。

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1977年〜1980年 王貞治

王貞治

王貞治

1977年 6480万円
1978年 7680万円
1979年 8160万円
1980年 8170万円
1970年代の大学初任給が40,000万円前後の時代ですから、さすがですね。

1981年・1982年 山本浩二

山本浩二

山本浩二

1981年 5200万円
1982年 6500万円
1981年も43本塁打、103打点で2年連続の二冠を手にした。1983年より長嶋清幸と山崎隆造が台頭してきたこともあり、左翼手にコンバート。同年は開幕戦から好調を維持し、4月30日の対阪神戦(甲子園)ではサイクル安打を記録した。前半戦を打率.371で折り返すなど三冠王を狙えるほどだったが、腰痛にも関わらず無理して出場を続けたため、打率が2割台に落ちるなど急失速した。最終的に復調してリーグ4位の打率.316を残し、大島康徳と並ぶ36本塁打で自身4度目の本塁打王を獲得。
さすがですね。ミスター赤ヘル

1983年・1984年 江夏豊

江夏豊

江夏豊

1983年 7800万円
1984年 7800万円
大沢の親分肌は江夏の気性に合っていたようで、大沢も「江夏を最後に使うのが我がチームの勝ちパターン」として江夏を信頼、それに応えるように移籍1年目の1981年、リリーフエースとしてチームの19年ぶりの優勝に大きく貢献し、シーズンMVPに輝いた。両リーグでのMVP受賞は、プロ野球史上初めてのことであった。また、広島時代の1979年から1983年まで5年連続、セパ両リーグに跨って最多セーブ投手のタイトルを獲得し、同時期、12球団全てからセーブを挙げる史上初の記録も作り上げた。1982年、通算200勝を達成し、日本プロ野球名球会に入会。

1985年 山本浩二

山本浩二

山本浩二

1985年 8500万円
1984年から打撃コーチを兼任し、この年はタイトルを逃したものの好成績を残して日本一に貢献、王貞治(現役最終年の1980年当時)を抜いて球界最高額となる年俸8500万円で契約した。

1986年〜1996年 落合博満

落合博満

落合博満

1987年 1億3000万円
1988年 1億3000万円
1989年 1億3000万円
1990年 1億6500万円
1991年 2億2000万円
1992年 3億円
1993年 2億5000万円
1994年 3億8000万円
1995年 3億8000万円
1996年 3億8000万円
1997年 3億6000万円
日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。
1991年2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。
【落合博満の契約更改】
1982年 1600万円→5400万円
・(29歳)打率.325、本塁打32、打点99で史上最年少三冠王に輝く。
・当初の提示は4500万円も、「もう一度よく考えてくださいよ」とだけ発し、沈黙。900万円の上積みを勝ち取った。
・交渉後には、「オレも28歳。せいぜいバリバリやれてあと4、5年がいいところ。もらえる時にもらっておかないと。成績が悪かったら半分カットでも構わない。その代わり4割打ったら1億円もらいますよ」と言い残し、球団事務所を去った。

1985年 5940万円→9700万円
・(30歳)打率.367、本塁打52、打点146で2度目の三冠王。

1986年 9700万円→1億3000万円
・(31歳)打率.360、本塁打50、打点116で2年連続3度目の三冠王。
・稲尾監督解任を機にトレードで中日へ移籍。「自分を一番高く買ってくれる球団に行く」
・初の1億円プレーヤーに。

1989年 1億3000万円→1億6500万円
・(36歳)打率.321、本塁打40、打点116で史上初の両リーグ打点王。
・1度保留した後、2度目の交渉で更改。記者会見の席に現れる、着席するなり笑顔で開口一番「いち・ろく・ご」

1990年 1億6500万円→2億2000万円
・(37歳)打率.290、本塁打34、打点102で本塁打と打点の二冠。
・日本人初の年俸調停を経て、2億2000万円に収束。

1993年 2億5000万円→3億8000万円
・(38歳)打率.285、本塁打17、打点65
・FAで巨人へ移籍。

1996年 3億8000万円→3億円
・(43歳)打率.301、本塁打21、打点86
・巨人に自由契約を申し入れ、日本ハムへ移籍。

1998年 3億円
・(45歳)打率.235、本塁打2、打点18
・現役引退。

1997年 清原和博

清原和博

清原和博

1997年 3億6000万円
1997年は開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍第一号となる本塁打を放って、西武時代の終盤と遜色ない成績を残すものの、シーズンを通じて阪神の4番・桧山進次郎と三振数を争い、当時のリーグ新記録152三振を記録[注釈 2](桧山は150三振)、求められたものが大きかったためか一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には打率.249、32本塁打、95打点の成績で、本塁打、打点は前年よりも上回り巨人の右打者での30本以上の本塁打は1988年の原辰徳以来であり、90打点以上も1987年の原以来の達成であった。しかし、勝負どころで相手チームが松井秀喜を敬遠、清原勝負を選択、清原が凡退した結果敗戦した試合も度々あり清原のエンジンがかかり始めたのも優勝争いから脱落してからであり、また4番での出場試合数的には清原がトップであったが清原以外に4番に座った広澤克実や石井浩郎の方が勝利に結びつく打撃をしていたこともあり、数字以上に大いに期待外れの印象を残してしまった。巨人はこの年、優勝戦線から早々に離脱し、清原自身プロ入り初のBクラスのシーズンを終えた。

1998年 イチロー

イチロー

イチロー

1998年 4億3000万円
1998年
打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成、5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)他、リーグ最多敬遠も4年連続となった。
一方で、イチローは1995年シーズンから1999年の4月11日までスランプに陥っていたと語り、特に1998年は深刻なスランプを感じていた[14]。実際に同年シーズンは21併殺打を記録し、5月には当時のパ・リーグワーストタイ記録となる4試合連続併殺打を記録している[15]。

1999年 イチロー、佐々木主浩

イチロー

イチロー

1999年 5億円
1999年
開幕前の2月、星野伸之や戎信行とともに、オリックスの業務提携球団・シアトル・マリナーズの春季キャンプに招待され、2週間参加した。シーズンでは開幕から調子があがらず、数年間のスランプをひきずっていたが、同年4月11日、ナゴヤドームでの西武戦の第5打席で西崎幸広からセカンドゴロを放ち、スランプを克服した[16]。これについて、自分が捉えたと思ったボールが2塁より左へ飛んでいくと思っていたのに、右に飛んでセカンドゴロになり、「ああ、これなんだと思ってしまいました。これまで捜し求めていたタイミングと身体の動きを一瞬で見つけることができた。あやふやなイメージではなく、頭と体で完全に理解することが出来たのです」、「ファーストに走りこんでゆく短い時間、自分のイメージに描いたフォームとセカンドゴロになってしまった実際のフォームを重ね合わせ、方程式を解くようにして、そうしたらはっきりとした解答が見つかったのです。こんな明確な解答ができたのは僕の野球人生の中ではじめてだった。飛び上がりたくなるほど嬉しかったです」と説明している[17]。イチローは「この打席がきっかけで、自分の打撃が開眼した」という旨のことを語っており、以降は復調した。
4月20日の対日本ハム戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔から通算100号本塁打を打った。前半戦を打率.370・19本塁打・60打点の成績で折り返すと、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦で下柳剛から右手に死球を受けて負傷、残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場がパ・リーグ歴代4位(現5位)の763でストップした。また、今シーズンは141安打にとどまり、最多安打に関しても5年連続で途切れた。しかし3年ぶりに最高出塁率を記録した他、首位打者に関しては6年連続とした他、引き続き5年連続最多敬遠を記録した。
佐々木主浩

佐々木主浩

1999年 5億円
1999年1月17日に撤去されるまでの間に約1,660万円のお賽銭が集まった[注釈 5]。日本シリーズでも第6戦で金村義明を併殺打に打ち取って胴上げ投手となり、MVPをはじめ、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞を受賞。シーズンオフにはイチローとともにプロ野球史上初めて年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年の新語・流行語大賞を受賞するなど、社会現象となるほどの活躍を見せた。

2000年以降

2000年 5億3000万円 イチロー
2001年 5億円 松井秀喜
2002年 6億1000万円 松井秀喜
2003年 5億円 中村紀洋
2004年 6億5000万円 佐々木主浩 
2005年 6億5000万円 佐々木主浩
2006年 5億円 松中信彦
2007年 5億5000万円 金本知憲
2008年 5億5000万円 金本知憲
2009年 5億5000万円 金本知憲
2010年 4億5000万円 金本知憲
2011年 5億円 ダルビッシュ有
2012年 4億5000万円 岩瀬仁紀
2013年 5億7000万円 阿部慎之助
2014年 6億円 阿部慎之助
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