忠相が寺社奉行達にいじめられていたのが事実だとしたら、犯人はこのなかにいるはずだ。
このリストを眺めているとわかることは他にもあり、どんな事情かはわからないが1734年と1735年、あわせて5人の寺社奉行が辞めている。
いずれも寺社奉行歴で言えば2年程度の人材なので何か特任的存在だったのかもしれないが、少し気になるかもしれない。
そんなごたついたところに忠相が抜擢されたのだとしたら何かと目立ってしまうのもある程度仕方の無いことだったかもしれない。
このリストを眺めているとわかることは他にもあり、どんな事情かはわからないが1734年と1735年、あわせて5人の寺社奉行が辞めている。
いずれも寺社奉行歴で言えば2年程度の人材なので何か特任的存在だったのかもしれないが、少し気になるかもしれない。
そんなごたついたところに忠相が抜擢されたのだとしたら何かと目立ってしまうのもある程度仕方の無いことだったかもしれない。
晩年 大岡越前
大岡越前は1677年生まれ。徳川吉宗は1684年生まれ。
君臣にはさほど珍しいことでもないが、吉宗の方が7歳ほど年下である。
その吉宗が、忠相よりも先に亡くなった。1751年のことである。享年68歳(現代の数え方で言うと66歳)であった。現代の感覚で言うとやや早い逝去だった気もするが、当時のことや将軍職のことを考えると長生きした方であろう。
忠相はいまだ寺社奉行であったが、吉宗の葬儀の手配をする一派に加えられており、その任も勤め上げ褒美を与えられている。吉宗は晩年、中風や麻痺を患っておりそのリハビリもしていたらしいから、あるいは覚悟のようなものはできていたのかもしれない。
そして忠相は、吉宗の葬儀を前にしてひとつの日記「大岡日記」を止めた。
吉宗が亡くなってから半年後の1751年12月。忠相も75歳で死去した。
11月に申請をし、寺社奉行の辞任は許されたが奏者番の辞任は許さなかった。
奏者番についてはさておき、ついに忠相は町奉行職も寺社奉行職も、大過なく勤め上げたということになる。
そのあまりにもあっさりとした引き際と鮮やかさは少しさみしい気もするが、気取ったところがなく、幕政の内政官に徹した大岡忠相という生き方のことを思うと、似合っているのかもしれない。
君臣にはさほど珍しいことでもないが、吉宗の方が7歳ほど年下である。
その吉宗が、忠相よりも先に亡くなった。1751年のことである。享年68歳(現代の数え方で言うと66歳)であった。現代の感覚で言うとやや早い逝去だった気もするが、当時のことや将軍職のことを考えると長生きした方であろう。
忠相はいまだ寺社奉行であったが、吉宗の葬儀の手配をする一派に加えられており、その任も勤め上げ褒美を与えられている。吉宗は晩年、中風や麻痺を患っておりそのリハビリもしていたらしいから、あるいは覚悟のようなものはできていたのかもしれない。
そして忠相は、吉宗の葬儀を前にしてひとつの日記「大岡日記」を止めた。
吉宗が亡くなってから半年後の1751年12月。忠相も75歳で死去した。
11月に申請をし、寺社奉行の辞任は許されたが奏者番の辞任は許さなかった。
奏者番についてはさておき、ついに忠相は町奉行職も寺社奉行職も、大過なく勤め上げたということになる。
そのあまりにもあっさりとした引き際と鮮やかさは少しさみしい気もするが、気取ったところがなく、幕政の内政官に徹した大岡忠相という生き方のことを思うと、似合っているのかもしれない。
via ja.wikipedia.org