スクリーン切り裂き事件
翌1993年5月、復帰作「大病人」公開初日、日劇東宝で上映中にスクリーンが切り裂かれるという事件が起きます。犯人は自称右翼の男でしたが、反社会勢力の脅迫行為は続いていました。
突然の訃報
1997年12月20日、東京麻布のマンション下にて遺体で発見されます。
投身自殺と判断されましたが、様々な憶測が飛び交いました。
投身自殺と判断されましたが、様々な憶測が飛び交いました。
・かつて『ミンボーの女』(1992年)公開後に襲撃事件があった経緯から、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。
・写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か
・死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた
・当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、池田大作創価学会名誉会長や創価学会関係者、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせた
真相が闇の中にあるのかどうかさえ、我々には知るよしもありませんが、親しき人たちにとってはあまりにも急すぎる悲しい出来事でした。
生前の本人の希望により葬式等は行われず、弔問もお断りしたそうです。
生前の本人の希望により葬式等は行われず、弔問もお断りしたそうです。
妻 宮本信子さんは
伊丹氏の死後10年間はスクリーンから遠ざかり、2007年に「眉山 びざん」で復帰を果たします。その間はジャズシンガーとして活動し、ライブやアルバム作成などを手掛けておりました。
伊丹氏の死から5年後の2002年12月20日、宮本信子さんはホテルオークラにて「感謝の夕べ」と題しディナーショーを開催しました。親交のあった方々を招待したその席で、過去のことを「本人が決めたことですからしかたないですけれども。。」と胸の内を述べています。
伊丹氏の死から5年後の2002年12月20日、宮本信子さんはホテルオークラにて「感謝の夕べ」と題しディナーショーを開催しました。親交のあった方々を招待したその席で、過去のことを「本人が決めたことですからしかたないですけれども。。」と胸の内を述べています。
伊丹十三記念館
妻・宮本信子さんにより、2007年5月愛媛県松山市に設立されました。
遺品や愛車が展示されており、「女房として最後の大仕事」と言われたとおりの出来栄えとなっております。
伊丹十三賞も創設し、第1回受賞者には糸井重里氏が輝きました。
遺品や愛車が展示されており、「女房として最後の大仕事」と言われたとおりの出来栄えとなっております。
伊丹十三賞も創設し、第1回受賞者には糸井重里氏が輝きました。