伊東四朗 ヤクザの大親分;入内島
小林総支配人を賭けゴルフの罠に落とし込む大親分。
元々こわもてだけに、結構決まってます。
元々こわもてだけに、結構決まってます。
via www.orute.co.jp
中尾彬 ヤクザの親分;伊場木
ホテルへの嫌がらせや締め付け等々、このこわもてでやられたらたまりません。
ハマリ役ですね。
ハマリ役ですね。
その他にも、津川雅彦・大滝秀治・柳生博・大地康雄・柳葉敏郎・櫻井淳子・ガッツ石松等々、豪華なメンバーが顔を揃えスクリーンを盛り上げてます。
伊丹十三
1933年5月、映画監督・伊丹万作の長男として京都に生まれました。
高校時代に執筆活動をはじめ、大江健三郎氏(ノーベル賞作家)との親交がはじまったのもこの頃です。のちに、大江氏は伊丹氏の妹と結婚されます。
デザイナー・イラストレーターとして活躍した後、俳優・監督等マルチタレントとしても活躍し、妻・宮本信子を起用したコミカルな社会派映画の制作に取り組みます。
1997年12月20日、自宅マンションで自殺(後述)。64歳でした。
高校時代に執筆活動をはじめ、大江健三郎氏(ノーベル賞作家)との親交がはじまったのもこの頃です。のちに、大江氏は伊丹氏の妹と結婚されます。
デザイナー・イラストレーターとして活躍した後、俳優・監督等マルチタレントとしても活躍し、妻・宮本信子を起用したコミカルな社会派映画の制作に取り組みます。
1997年12月20日、自宅マンションで自殺(後述)。64歳でした。
映画監督として1984年、
実体験をもとにした「お葬式」でデビュー。
翌1995年に公開した「タンポポ」からコミカル的な作品が主流となります。
そして1987年あの「マルサの女」が公開されます。✖✖の女シリーズの第1作です。この映画は日本アカデミー賞の数々の部門で表彰されました。
翌1988年に「マルサの女2」が公開。
1990年には大流行語になった「あげまん」が公開されます。男子は特にこの「あげまん」という言葉を使ってましたねぇ。
そして1992年「ミンボーの女」が公開されます。
その後、1993年に「大病人」、1995年「静かな生活」、1996年「スーパーの女」と立て続けに制作。
1997年、自身の体験をヒントに描いた「マルタイの女」を発表。
本編が遺作となりました。
実体験をもとにした「お葬式」でデビュー。
翌1995年に公開した「タンポポ」からコミカル的な作品が主流となります。
そして1987年あの「マルサの女」が公開されます。✖✖の女シリーズの第1作です。この映画は日本アカデミー賞の数々の部門で表彰されました。
翌1988年に「マルサの女2」が公開。
1990年には大流行語になった「あげまん」が公開されます。男子は特にこの「あげまん」という言葉を使ってましたねぇ。
そして1992年「ミンボーの女」が公開されます。
その後、1993年に「大病人」、1995年「静かな生活」、1996年「スーパーの女」と立て続けに制作。
1997年、自身の体験をヒントに描いた「マルタイの女」を発表。
本編が遺作となりました。
via movie.hix05.com
『マルサの女』 予告編
国税局査察部、通称マルサの女査察官と、脱税をしているラブホ経営者との戦いを描いている。
via youtu.be
襲撃事件
「ミンボーの女」公開直後、1992年5月22日夜、自宅近くの駐車場で複数の男達に刃物で襲撃され、全治3か月の重傷を負います。犯人は5人の暴力団員。12月に逮捕され実刑判決を受けています。原因は映画の内容等いろいろ言われておりますが、伊丹監督自身、プロモーションビデオに上半身入れ墨を施して登場したり、ある記者会見では「私は、この映画でヤクザに喧嘩を売ったのです」という発言をしたり、ある種の挑発と取られる行為をしていたことがありました。五社英雄氏(映画監督 鬼龍院花子の生涯・極道の妻たち等)は、「あの男はやられるかもしれない」と関係者に言っていたそうです。
伊丹十三[ミンボーの女]特報
via youtu.be
1992 NEWSCOM
襲撃直後、
病院に搬送される伊丹氏。
この約1週間後に、「自分の信条に従って作った。私はくじけない。映画で自由を貫く」とのコメントを残しています。
病院に搬送される伊丹氏。
この約1週間後に、「自分の信条に従って作った。私はくじけない。映画で自由を貫く」とのコメントを残しています。
via youtu.be