19の結成とデビュー
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19のはじまりは、岡平健治さんと岩瀬敬吾さんの2人のデュオでした。
2人は広島県出身で高校3年生の時に出会います。その頃はお互い別々に音楽活動をしていて、岡平さんは数々の賞を獲っている有名人でした。岡平さんに興味を持っていた岩瀬さんが、同じコンテストに声を掛けます。岩瀬さんはそこでオリジナルソングを披露。岡平さんも興味を持ちすぐに意気投合します。
2人は公園に集まり弾き語りをしていました。呉駅のロータリーで路上ライブをしていたりもしました。この頃まだ「19」という名前はなく「少年フレンド」という名前で活動していました。
その後高校を卒業。岡平さんは最初は就職していたのですが、やはりミュージシャンへの道が諦めきれずに大阪に行きます。岩瀬さんは上京してミュージシャンを目指していました。2人は離れても交流があり、深夜にお互い曲を聞かせていました。その後、岡平さんも上京。(実際には川崎市で小田急線の柿生駅。「小田急柿生」という歌もあります)
2人が揃うと公演、路上だけでなく、喫茶店、ライブハウスなどでもライブを行うようになります。
その後、イラストレーターのナカムラミツル(326)さんに出会い、3人は意気投合。
326さんも加えて「19(ジューク)」とユニット名を替えて活動することになります。19というのは2人が19歳だったことや、ジュークボックスに由来しているといわれています。
イラストレーターが音楽ユニットにどう参加するのか?と思われると思いますが、326さんはビジュアルプロデュースと作詞、という形で参加します。CDジャケットも326さんの絵でしたね。
2人は広島県出身で高校3年生の時に出会います。その頃はお互い別々に音楽活動をしていて、岡平さんは数々の賞を獲っている有名人でした。岡平さんに興味を持っていた岩瀬さんが、同じコンテストに声を掛けます。岩瀬さんはそこでオリジナルソングを披露。岡平さんも興味を持ちすぐに意気投合します。
2人は公園に集まり弾き語りをしていました。呉駅のロータリーで路上ライブをしていたりもしました。この頃まだ「19」という名前はなく「少年フレンド」という名前で活動していました。
その後高校を卒業。岡平さんは最初は就職していたのですが、やはりミュージシャンへの道が諦めきれずに大阪に行きます。岩瀬さんは上京してミュージシャンを目指していました。2人は離れても交流があり、深夜にお互い曲を聞かせていました。その後、岡平さんも上京。(実際には川崎市で小田急線の柿生駅。「小田急柿生」という歌もあります)
2人が揃うと公演、路上だけでなく、喫茶店、ライブハウスなどでもライブを行うようになります。
その後、イラストレーターのナカムラミツル(326)さんに出会い、3人は意気投合。
326さんも加えて「19(ジューク)」とユニット名を替えて活動することになります。19というのは2人が19歳だったことや、ジュークボックスに由来しているといわれています。
イラストレーターが音楽ユニットにどう参加するのか?と思われると思いますが、326さんはビジュアルプロデュースと作詞、という形で参加します。CDジャケットも326さんの絵でしたね。
「あの青をこえて」
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1998年に326さんの個展が開かれることになり、そこで19のデビューを発表します。326さんは当時人気絶頂だったので19はいきなり注目を集めることになります。
そして1998年11月に「あの青をこえて」でメジャーデビューします。作詞は326さん。作曲は岩瀬さん(イワセケイゴ名義)でした。
326さんが参加されているとはいえ、無名のユニット。最初はタイアップもなかったのでオリコン圏外でした。ですが、その後次のシングルのヒットによって発売から10カ月以上たってチャートにランクインします。
最初は単純に人の目に触れる機会が少なかったのでしょうね。
そして1998年11月に「あの青をこえて」でメジャーデビューします。作詞は326さん。作曲は岩瀬さん(イワセケイゴ名義)でした。
326さんが参加されているとはいえ、無名のユニット。最初はタイアップもなかったのでオリコン圏外でした。ですが、その後次のシングルのヒットによって発売から10カ月以上たってチャートにランクインします。
最初は単純に人の目に触れる機会が少なかったのでしょうね。
「あの紙ヒコーキ くもり空わって 」
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1999年3月に2ndシングル「あの紙ヒコーキ くもり空わって」をリリース。2曲連続で「あの」から始まるというのはなかなか珍しいですね。作詞は326さん。作曲は19名義になっていますが、ベースは岩瀬さんです。
元々はカップリングの「卒業の歌、友達の歌。」が表題曲になる予定だったのですが。「あの紙ヒコーキ くもり空わって」が1999年春のTBS「1999・春」のキャンペーンソングとなったため、こちらが表題曲になりました。どちらも卒業を歌った曲で、長く歌われていましたね。
最初はオリコン50位以内だったのですが、20週連続チャートインするロングヒットとなり、最高位は6位にまで上がりました。じわじわヒットしたんですね。この歌で紅白歌合戦にも出場しています。
この曲のヒットで知名度が一気にアップし、さらに注目を集めることになります。
元々はカップリングの「卒業の歌、友達の歌。」が表題曲になる予定だったのですが。「あの紙ヒコーキ くもり空わって」が1999年春のTBS「1999・春」のキャンペーンソングとなったため、こちらが表題曲になりました。どちらも卒業を歌った曲で、長く歌われていましたね。
最初はオリコン50位以内だったのですが、20週連続チャートインするロングヒットとなり、最高位は6位にまで上がりました。じわじわヒットしたんですね。この歌で紅白歌合戦にも出場しています。
この曲のヒットで知名度が一気にアップし、さらに注目を集めることになります。
「すべてへ」
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1999年10月には3枚目のシングル「すべてへ」をリリース。作詞326さん、作曲岡平健治さん。TBS秋の「1999・秋」のテーマソングとなりロングヒット。そして、オリコン1位を獲得しました。
歌詞は、新たな世代に向けて歌った歌といった内容になっています。
326さんのイラストはカラフルな印象が強いですがこのジャケットはモノクロですね。
歌詞は、新たな世代に向けて歌った歌といった内容になっています。
326さんのイラストはカラフルな印象が強いですがこのジャケットはモノクロですね。
脱退から解散
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人気絶頂の19でしたが、「すべてへ」をリリースしたのち、326さんが事実上の脱退をします。
特に脱退宣言などはなかったのですが、次のシングル『果てのない道』からジャケットがイラストではなく写真になり、作詞も岡平さん、岩瀬さんの柵曲を担当した方が行うようになります。
326さんが脱退してから曲調も変わりロック調になっていきます。
3人の19をもっと見たかったですが、イラストレーターと音楽の兼業というのはなかなか難しそうですよね。
実はこの脱退は当時の事務所の方針で「2人組で売り出したいから」という理由で、326さんはやめさせられたのだそう。相談もなかったのに「3人で相談して決めた」と発表されたのだとか。ひどい話ですね。
グループ名は「少年フレンド」ではなく「19」のまま2人で活動していきます。ですがそれも長くは続かず、2002年2月に3月末で解散することを発表。3月に「蒲公英 -たんぽぽ- 」というシングルをリリースしています。解散ライブは行われませんでした。
解散後、岡平さんは「3B LAB.☆S」というバンドを結成し、ボーカル兼ギターとして活動。ソロ活動もされています。岩瀬さんはソロ活動をされています。解散してしばらくは岡平さんと岩瀬さんは顔を合わせることもなかったそうですが、現在は交流はあるそうです。
326さんはイラストレーターとして活動し、2人も連絡を取っています。
再結成したいという気持ちもあるそうなのでいつかまた19を見られる日が来たらいいですね。
特に脱退宣言などはなかったのですが、次のシングル『果てのない道』からジャケットがイラストではなく写真になり、作詞も岡平さん、岩瀬さんの柵曲を担当した方が行うようになります。
326さんが脱退してから曲調も変わりロック調になっていきます。
3人の19をもっと見たかったですが、イラストレーターと音楽の兼業というのはなかなか難しそうですよね。
実はこの脱退は当時の事務所の方針で「2人組で売り出したいから」という理由で、326さんはやめさせられたのだそう。相談もなかったのに「3人で相談して決めた」と発表されたのだとか。ひどい話ですね。
グループ名は「少年フレンド」ではなく「19」のまま2人で活動していきます。ですがそれも長くは続かず、2002年2月に3月末で解散することを発表。3月に「蒲公英 -たんぽぽ- 」というシングルをリリースしています。解散ライブは行われませんでした。
解散後、岡平さんは「3B LAB.☆S」というバンドを結成し、ボーカル兼ギターとして活動。ソロ活動もされています。岩瀬さんはソロ活動をされています。解散してしばらくは岡平さんと岩瀬さんは顔を合わせることもなかったそうですが、現在は交流はあるそうです。
326さんはイラストレーターとして活動し、2人も連絡を取っています。
再結成したいという気持ちもあるそうなのでいつかまた19を見られる日が来たらいいですね。
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