日本球界からメジャーへ行って活躍した助っ人外国人特集!
2017年12月10日 更新

日本球界からメジャーへ行って活躍した助っ人外国人特集!

巨人のマイコラスがメジャー復帰。とかく巨人ファンではない身としては、果たして彼がどれくらいMLBでやれるのかを見てみたいところですが、振り返ってみると、これまでも何人もの助っ人外国人がメジャーへ再挑戦し、中には抜群の実績を収めた選手もいたものです。そこで今回、日本球界からメジャーへ行って活躍した外国人選手を、何人かピックアップして紹介していきたいと思います。

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デービー・ジョンソン(巨人)‐ 打率.321 8本 36打点(フィリーズ・1977年)

1975年から1976年までの2シーズン、巨人でプレーしたデービー・ジョンソンは、ワールドシリーズに4回出場し、来日2年前の1973年には、アスレチックスで打率.270 43本 99打点という好成績を残したスラッガー。この年から監督に就任していた長嶋茂雄の代わりをつとめられる大砲として、大いに期待を寄せられていました。

しかし、日本の水になかなかなじめず、また、死球による肩甲骨亀裂骨折のけがの影響もあって、1年目は、打率.197 13本 38打点という期待外れの結果に。「虚人のジョン損」などと揶揄されました。2年目には打率.275 26本 74打点とまずまずの成績を残しますが、巨人サイドの敬意に欠いた対応に嫌気が差し帰国。その後、フィリーズへ入団して上記のような好成績を残しました。
引退後は監督業に従事し、ニューヨーク・メッツでワールドシリーズ制覇(1986年)、2008年北京五輪でアメリカ代表を率いて銅メダル獲得とたしかな実績を残しています。
デービー ジョンソン

デービー ジョンソン

ビル・ガリクソン(巨人)‐20勝9敗 防御率3.90(タイガース・1991年)

ジャー通算103勝・6年連続2桁勝利で、働き盛りの29歳…。今考えると、これだけの大物をよく釣れたものです。メジャーで実績十分なガリクソンでしたが、剛速球投手かと思いきや、そうではありません。ストレートは140キロ前半。スライダー・シンカーなどを織り交ぜながら打たせて取るピッチングが持ち味の技巧派でした。

巨人在籍時の2年間は21勝14敗と、まずまずの成績をマーク。その後、再び活躍の舞台をメジャーに移すのですが、ここからの躍進がなかなかすごいのです。1991年にはデトロイト・タイガースで20勝を記録し、この年のメジャー最多勝のタイトルを獲得。これ以降も勝ち星を積み重ね続け、メジャー復帰から引退までの5年間で61勝を記録するという、選手生活の晩年も十分過ぎるほどの実績を残したのでした。

ガリクソン東京D初登板(1988.4.9 G+)

セシル・フィルダー(阪神)‐打率.277 51本 132打点(タイガース・1990年)

「出戻り外国人」の中でもっとも傑出した成績を残したのが、このフィルダーです。トロント・ブルージェイズの代打要員としてくすぶっているところを阪神に拾い上げられ、1989年に来日。1年目から眠っていた才能を開花させ、打率.302 38本 81打点と大暴れ。長打率はリーグトップの「.628」をマークしました。

1年で阪神を退団しメジャーに復帰した後も、フィルダーの成長は止まりません。本塁打王は2回(1990年・1991年)、打点王に関しては1990年~1992年の3年連続で獲得。前述のガリクソンもほぼ同時期にタイガースへ入団したことから「日本製品は素晴らしい!」と、2人まとめて監督から絶賛されたといいます。

1989年 巨人 vs 阪神 セシル・フィルダー看板直撃弾

マット・ステアーズ(中日)‐打率.294 26本 106打点(アスレチックス・1998年)

メジャー通算265本塁打の強打者マット・ステアーズは、そのキャリアのごく初期に、中日ドラゴンズでプレーしていました。当時25歳。6月からの加入でクリーンナップを担ったものの、成績は、打率.250 6本 23打点と振るいませんでした。
しかし、当時の同僚・落合博満だけは「こいつは良いバッターになる」と太鼓判を押していたのだとか。実際、アスレチックス時代に2年連続100打点以上を記録するなど、見違えるほどに才能を開花させているわけだから、落合の慧眼たるや恐るべしです。
マット・ステアーズ

マット・ステアーズ

フリオ・フランコ(ロッテ)‐打率.322 14本 76打点(インディアンス・1996年)

1995年、当時、30代後半ながらも、バリバリのメジャーレギュラークラスだったフランコがロッテに来てくれたのは、MLB史上最長となるストライキのおかげ。1991年に打率.341で首位打者獲得経験もあるこの中距離砲は、日本中の野球少年がマネした独特のバッティングフォームでヒットを量産し、127試合出場で.306という高打率をマークしました。

しかし、当時のGM・広岡達朗との確執によりロッテを退団し、インディアンスへ移籍。復帰1年目から上記のような好成績を残した後、「ヒロオカが辞めたら戻ってくる」との言葉通り、1998年にロッテへ再入団しています。
フリオ・フランコ

フリオ・フランコ

アルフォンソ・ソリアーノ(広島)‐打率.300 39本 102打点 41盗塁(ヤンキース・2002年)

もしも5年、いや、3年でも日本に留まっていたら、果たして彼はどんな成績を残したのか…。夢想したファンは多いのではないでしょうか?
メジャー通算412本塁打・2095安打・289盗塁という偉大な記録を残しているメジャーリーガー・ソリアーノの広島時代(1996~1997年)における成績は、9試合に出場して17打数で2安打、打率.118という散々ものであり、在籍期間のほとんどを2軍で過ごしています。当時の彼といえば、やせっぽっちで非力で、そして鈍足。それがまさかメジャー屈指の5ツールプレイヤーへと成長するなんて、人生何が起こるか分からないというものです。

プロ野球 伝説の助っ人 広島東洋カープ アルフォンソ・ソリアーノ 74

(こじへい)
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