都倉俊一の経歴がすごい
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都倉俊一さんの父親は外交官で裕福な家庭に生まれています。
都倉俊一さん自身も7歳~12歳にドイツで過ごし音楽の基礎を学んでいます。
学習院中等科に通いますが卒業後~18歳までドイツで過ごします。帰国後は学習院大学法学部に進学し、1971年学習院大学法学部を卒業しています。
若かりし頃から品格のある知的な雰囲気は生まれながらのものだというのが理解できます。
大学在学中の1968年にフォーク・グループでヴォーカルを務めます。作曲家としての活動も大学2年の頃からしています。
1971年10月3日から1983年9月25日テレビ放送されていたオーディション番組『スター誕生!』の審査員を務めたことから世間一般に知られることとなります。
都倉俊一さん自身も7歳~12歳にドイツで過ごし音楽の基礎を学んでいます。
学習院中等科に通いますが卒業後~18歳までドイツで過ごします。帰国後は学習院大学法学部に進学し、1971年学習院大学法学部を卒業しています。
若かりし頃から品格のある知的な雰囲気は生まれながらのものだというのが理解できます。
大学在学中の1968年にフォーク・グループでヴォーカルを務めます。作曲家としての活動も大学2年の頃からしています。
1971年10月3日から1983年9月25日テレビ放送されていたオーディション番組『スター誕生!』の審査員を務めたことから世間一般に知られることとなります。
年 | 経緯 |
---|---|
1977年 | 日本音楽著作権協会評議員 |
1983年 | L.A拠点で作曲・プロデュース業 |
1995年 | 日本作編曲家協会理事 |
2001年 | 日本音楽著作権協会理事 |
2005年 | 日本作曲家協会理事 |
2009年 | 日本作曲家協会常務理事 |
2010年 | 日本音楽著作権協会会長(船村徹氏後任)2016年3月退任 |
2011年 | 文部科学省文化審議会委員 |
2012年 | 国立競技場有識者会議メンバー |
2014年 | 昭和音楽大学客員教授 |
2015年3月23日付 | 横綱審議委員会委員 |
2015年10月 | 国際音楽創作者評議会執行委員 |
2016年 | 日本音楽著作権協会特別顧問アジア・太平洋音楽創作者連盟執行委員会会長 |
2018年 | 文化功労者選出 |
2021年4月1日 | 第23代文化庁長官就任 |
都倉俊一の現在
作曲家として知られる都倉俊一文化庁長官の声明は、文化芸術に何かしら関わりを持つ全ての国民に向けてのメッセージとのこと。全文掲載していますのでぜひご一読を↓https://t.co/kDA3sAkK4Y
— 楊井人文 Yanai Hitofumi (@yanai_factcheck) May 15, 2021
都倉俊一さんは2021年4月から 第23代文化庁長官に就任しています。
都倉俊一さんは日本音楽著作権協会(JASRAC)の前会長で3月まで特別顧問でした。
文化庁は著作権行政を担うということでJASRACに対して指導・監督する立場になります。また文化庁は著作権に関してのトラブルが起こった時に間に入って「裁定」を下す権限を持っています。そのような監督庁のTOPに都倉俊一さんが就任されたというので話題になりました。
メディアでも取り上げられ、久しぶりに目にした都倉俊一さんの姿はダンディな姿が昔と変わっていませんでした。
都倉俊一さんは日本音楽著作権協会(JASRAC)の前会長で3月まで特別顧問でした。
文化庁は著作権行政を担うということでJASRACに対して指導・監督する立場になります。また文化庁は著作権に関してのトラブルが起こった時に間に入って「裁定」を下す権限を持っています。そのような監督庁のTOPに都倉俊一さんが就任されたというので話題になりました。
メディアでも取り上げられ、久しぶりに目にした都倉俊一さんの姿はダンディな姿が昔と変わっていませんでした。
都倉俊一が手がけた代表作~秘話~
山本リンダ
都倉俊一さんと言えば、山本リンダさん!昭和のムード歌謡やフォークが流行している中で山本リンダさんの登場は衝撃的でした。激しく踊りながら挑戦的な歌詞にドキドキワクワクするようなメロディの融合で子供も大人も魅了されました。
都倉俊一&阿久悠コンビでは99%都倉俊一さんの曲が先でアレンジも全部やって、最後にメロディを入れて作詞は阿久悠さんという形で進んでいったということです。
都倉俊一&阿久悠コンビでは99%都倉俊一さんの曲が先でアレンジも全部やって、最後にメロディを入れて作詞は阿久悠さんという形で進んでいったということです。
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1973年2月25日リリースの「狙いうち」に面白いエピソードがあります。「狙い内」の歌詞の中に『ウララウララ~♪』と印象的な箇所があります。あの歌詞の誕生は、都倉俊一さんがピアノでその部分を弾き、それを阿久悠さんに届け、返ってきた歌詞が『ウララウララウラウラで』で都倉俊一さんは仮の歌詞だと思っていたら、完成した歌詞だったということです。
山口百恵
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伝説のオーディション番組「スター誕生!」から1970年代デビューした森昌子、桜田淳子に続き大型新人!と期待されたのが山口百恵さんでした。ただ千家和也・都倉俊一の「としごろ」でデビューするも都倉俊一の期待したほどのヒットにはなりませんでしたと言うより、桜田淳子さんのデビューほどのインパクトがなかったという印象があります。
当初は歌唱力がいまひとつで、レコーディングを中断させたこともしばしば。その度に百恵は“先生、すみません”って何度も頭を下げてきてね。でも、一度も涙を見せたことはない。14歳にもかかわらず、プロ意識と芯の強さはすでに、ひとかどの芸能人でしたね
デビュー曲について都倉俊一さんは自身の作曲にも関わらず明るい曲調のその曲に違和感を持ったと言います。そこから2曲目、3曲目と『山口百恵さんの世界に僕ら(千家・都倉)が入って曲作りをした』と話しています。それを見抜いた都倉俊一さんもさすがだと感じます。
山口百恵さんのイメージと曲が合致した最初の1曲と言えば『ひと夏の経験』ではないでしょうか。デビューシングルから5曲目の曲です。出だしのでメロディと千家さんの歌詞がぞくぞくするような感覚でした。
この曲は詞が先だったということです。
山口百恵が歌うから意味のある曲というので歌詞のインパクトは絶大でした。そして一回歌わせようと百恵さんに歌わせたところ「サラッと歌ってしまえたと言います。
そして大ヒットとなった『ひと夏の経験』です。今聞いても耳に残る歌詞とメロディです。
この曲は詞が先だったということです。
山口百恵が歌うから意味のある曲というので歌詞のインパクトは絶大でした。そして一回歌わせようと百恵さんに歌わせたところ「サラッと歌ってしまえたと言います。
そして大ヒットとなった『ひと夏の経験』です。今聞いても耳に残る歌詞とメロディです。
ピンクレディ
1976年8月25日デビュー曲「ペッパー警部」がリリースされ、阿久悠&都倉俊一コンビの快進撃が始まります。ピンクレディに関して期待されていなかったデュオと言うことで自由に曲作が出来たと言います。
デビューしてみると、2曲目の「S.O.S」続いて「カルメン'77」と売り上げ60万以上!そしてついに「渚のシンドバッド」でミリオンセラーとなります。
快進撃はまだ続きます。「ウォンテッド(指名手配)」で120万枚のセールスでピークは「UFO」のセールス150万以上!日本中がピンクレディを知ることとなります。
都倉俊一と言えば、ピンクレディ、ピンクレディと言えば都倉俊一と多くの人が思ったことでしょう。
デビューしてみると、2曲目の「S.O.S」続いて「カルメン'77」と売り上げ60万以上!そしてついに「渚のシンドバッド」でミリオンセラーとなります。
快進撃はまだ続きます。「ウォンテッド(指名手配)」で120万枚のセールスでピークは「UFO」のセールス150万以上!日本中がピンクレディを知ることとなります。
都倉俊一と言えば、ピンクレディ、ピンクレディと言えば都倉俊一と多くの人が思ったことでしょう。
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10週連続オリコンチャート1位を獲得していた「UFO」、子供だけではなく、大人までもその振り付けを真似ていました。そんな中で都倉俊一さんが思っていたこととは?
もう分かっているわけです、「ピークが来てるなー」っていうのが。
今、200万枚売れてて、次に150万枚売れても200万枚から比べれば落ちるし、
いつかは100万枚をきるわけです。よく阿久悠さんと、「早くお葬式やりたいね」って言ってたの。「ジパング」とか「透明人間」とか、一生懸命やったんだけど確か100万枚きって、そうなると何となく、「ん~」とか思ってね。でも関係者がいるからやめるわけにはいかない。
どこでやめるかっていう、これはなかなかつらいものがあります。
ピークを迎えればいつかは終わりを迎えるというのは、快進撃で日本中を沸かせたその裏にある宿命みたいなものでしょうか。
ただハッキリわかることは、都倉俊一さんと言えば、「山本リンダ」「山口百恵」「ピンクレディ」と間違いなく昭和の時代を駆け抜け、そして昭和の歌謡曲の最前線でけん引し、時代を作ったことに間違いないということです。
日本の多くの人が聞いて知っている曲を作り上げた作曲家なんだとあらためて思います。
日本の多くの人が聞いて知っている曲を作り上げた作曲家なんだとあらためて思います。
生年月日: 1948年6月21日(73歳)
出身地: 東京都
学歴: 学習院大学卒業
職業 :作曲家、編曲家、歌手
現文化庁長官
活動期間:1969年 -