はじめに
そもそも高層ビルというのは、どういう建物かというところから調べてみました。
日本の法律では、高さ60mを超える建築物に対して、それ以下の建築物と異なる構造の基準があります。航空法においても60m以上の高さの物件には航空障害灯の設置が義務付けられていますが、超高層ビルという区分がされている訳ではありません。高層ビルや超高層ビルと呼びますが、統一された明確な定義はないのです。
ちなみに広辞苑では、15階以上、または100m以上の高さの建築物となっているようですね。
さて、本題の日本初の超高層ビルの話に戻りたいと思います。
日本の法律では、高さ60mを超える建築物に対して、それ以下の建築物と異なる構造の基準があります。航空法においても60m以上の高さの物件には航空障害灯の設置が義務付けられていますが、超高層ビルという区分がされている訳ではありません。高層ビルや超高層ビルと呼びますが、統一された明確な定義はないのです。
ちなみに広辞苑では、15階以上、または100m以上の高さの建築物となっているようですね。
さて、本題の日本初の超高層ビルの話に戻りたいと思います。
via ja.wikipedia.org
日本初の超高層ビルの誕生
東京都千代田区霞が関3丁目。
地上36階、地下3階、地上高147m。
これが、日本初の超高層ビルである「霞が関ビルディング」です。
1968年に日本建築学会賞業績部門賞、1969年に第10回BCS賞を受賞しています。
三井不動産所有で、1968年4月12日にオープンしました。
最上階に展望台、下層階に郵便局や診療所、ビルの周囲を緑地にし「街」としての機能を取り込みました。これは複合ビルの先駆けとなっています。
日本では1960年代初めまでは、地震国のため高さ31m以上のビルの建設は不可能とされていました。しかし、1963年に高さ制限に関する法律が撤廃され、この霞が関ビルディングを起工することができたのです。
霞が関ビルディングの建設以前は、会員制社交クラブ東京倶楽部のビルでしたが、1959年に倶楽部ビルの建て替えを三井不動産社長に協力を求め、共同ビルを建設することになったのです。しかし、着工直前に景気が悪くなり、政府からビル建設ストップ令が出され着工の1年繰り延べを勧告されたのです。ですが、この間に東京倶楽部に隣接する旧華族の親睦団体霞会館も共同開発を希望していることがわかり、共同開発に参加することとなります。
ちょうどそのころ、周囲に広い道路、空き地があれば、31メートル以上のビル建設を認める特別緩和制度が旧建築基本法にでき、この特例を利用し16階の共同ビルを建てることを計画したのですが、1962年10月日本建築学会が高さ制限を撤廃したことで、日本初の超高層ビル建設の青写真が描かれていきました。
ビル設計は、山下寿郎設計事務所。建設は三井不動産(施主)と鹿島建設(のちに三井建設も参加)の2社。設計から竣工まで緊密に協力する体制を構築し、その後、ビル建設委員会には建築学者も参加する協力体制のもと、1965年3月18日に起工、1967年4月18日に上棟しました。
地上36階、地下3階、地上高147m。
これが、日本初の超高層ビルである「霞が関ビルディング」です。
1968年に日本建築学会賞業績部門賞、1969年に第10回BCS賞を受賞しています。
三井不動産所有で、1968年4月12日にオープンしました。
最上階に展望台、下層階に郵便局や診療所、ビルの周囲を緑地にし「街」としての機能を取り込みました。これは複合ビルの先駆けとなっています。
日本では1960年代初めまでは、地震国のため高さ31m以上のビルの建設は不可能とされていました。しかし、1963年に高さ制限に関する法律が撤廃され、この霞が関ビルディングを起工することができたのです。
霞が関ビルディングの建設以前は、会員制社交クラブ東京倶楽部のビルでしたが、1959年に倶楽部ビルの建て替えを三井不動産社長に協力を求め、共同ビルを建設することになったのです。しかし、着工直前に景気が悪くなり、政府からビル建設ストップ令が出され着工の1年繰り延べを勧告されたのです。ですが、この間に東京倶楽部に隣接する旧華族の親睦団体霞会館も共同開発を希望していることがわかり、共同開発に参加することとなります。
ちょうどそのころ、周囲に広い道路、空き地があれば、31メートル以上のビル建設を認める特別緩和制度が旧建築基本法にでき、この特例を利用し16階の共同ビルを建てることを計画したのですが、1962年10月日本建築学会が高さ制限を撤廃したことで、日本初の超高層ビル建設の青写真が描かれていきました。
ビル設計は、山下寿郎設計事務所。建設は三井不動産(施主)と鹿島建設(のちに三井建設も参加)の2社。設計から竣工まで緊密に協力する体制を構築し、その後、ビル建設委員会には建築学者も参加する協力体制のもと、1965年3月18日に起工、1967年4月18日に上棟しました。
via ja.wikipedia.org
五重塔からヒントを得た柔構造(建築物に働く地震の力を吸収し、建築物の破壊を防ぐ構造)を用い、スリット入り耐力壁を使用したり、揚重機械であるタワークレーンの「セルフクライミング方式」、床版工事における「デットプレート捨型枠工法」など、工法・工程管理の改善が、さまざまなレベルで行われました。中央監視、自動起動・停止など無人運転による新しい自動制御方式も採用され、現在のビル建築にもこの時の技術等が活かされています。
工事費は163億6300万円。
折しも不況にぶつかっていた時代で、三井系大企業の再建に追われていた三井銀行、三井信託銀行に全て頼ることができず、日本開発銀行からの融資も当時の大蔵省が待ったをかけるなど資金調達は難航しました。しかし、第一生命へ窮状を訴えたところ、生保5社の融資団が結成、さらには銀行5行による融資団もでき、合計100憶の融資の目途をつけることができました。
ビルは建設中から、多くの見物人が現場に押し寄せており、完成時は言うまでもなく人々を大変驚かせたのでした。また最上階36階の展望台「パノラマ36」は、連日長蛇の列ができるほど大盛況でした。
また、1972年のアポロ有人月面着陸では、ビル照明を利用したウィンドアートで祝しました。このウィンドアートは霞が関ビルが日本で初めて披露したものです。
不況の苦難を乗り越え、あらゆる技術の革新につながった霞が関ビルですが、たった2年で別のビルに日本一の座を奪われてしまいました。それは1970年3月に竣工した世界貿易センタービルです。
via ja.wikipedia.org
日本における2番目の超高層ビルとして竣工し、地上40階、地下3階で高さ162.59mです。
霞が関ビルとは約15cm差です。
ですが、この世界貿易センタービルもまた、たった1年で日本一の座を奪われました。
1971年に開業した京王プラザホテルです。地上47階、地下3階、高さ178m。客室は1000室を超えます。こちらは世界一の高層ホテルとして建設されています。
霞が関ビルとは約15cm差です。
ですが、この世界貿易センタービルもまた、たった1年で日本一の座を奪われました。
1971年に開業した京王プラザホテルです。地上47階、地下3階、高さ178m。客室は1000室を超えます。こちらは世界一の高層ホテルとして建設されています。
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おしまいに
霞が関ビルの超高層ビル建築のノウハウによって、この地震大国日本に多くの高層ビルが立ち並んでいると思うと思慮深いですね。
1969年には「超高層のあけぼの」と題され、建築に関わった人々の苦労や技術革新が描かれた映画も作られ、日本のビル建設技術の進歩に大きく関わったビルであったことが伺えます。
1969年には「超高層のあけぼの」と題され、建築に関わった人々の苦労や技術革新が描かれた映画も作られ、日本のビル建設技術の進歩に大きく関わったビルであったことが伺えます。
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