黒柳朝    トットちゃんの母、チョッちゃん
2024年6月4日 更新

黒柳朝 トットちゃんの母、チョッちゃん

黒柳徹子の母、黒柳朝。バイオリニストの黒柳守綱に略奪、監禁されて結婚。戦争、夫の徴兵、300機のB29による東京大空襲、疎開、焼け野原となった東京で遭った寸借詐欺、黒柳徹子の結婚詐欺、どんなときでも自分らしく生きたチョッちゃんのエピソード。

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長男、明児は水泳が得意で、毎年、大会で優勝していたが、小学校5年生のときに6年生や中学生も参加する遠泳大会で優勝。
また勉強でも6年生の算数のテストで満点をとった。
参観日に学校へ行った黒柳朝は、図画や習字が展示されている教室で明児の答案用紙を発見。
教師に
「先日、6年生の問題をさせましたら満点だったので張り出しました」
といわれ、晴れがましい気持ちになった。
それを聞いた黒柳守綱もトロけるような表情で
「ウン、ウン」
とうなずいた。
しかし小学5年生の2月、学校で膝にボールが当たった明児が、その夜から発熱。
急性リウマチから敗血症となり、高熱と痛みにうなされた。
黒柳朝は、少しでも痛みがとれるようら頭部と患部を冷やして看病。
「この子を失うくらいなら私の命もいらない」
と泣いて祈った。
しかし1944年2月、明児は膝の手術も行ったが、とうとう亡くなってしまった。
黒柳朝は、悲しみを忘れようと明児のものはすべて捨ててしまった。
近所の人から
「明けちゃんに」
とお供えをもらったが、とてもそんな気になれずに庭に放り投げてしまい、黒柳守綱は、慰めながら明児の写真に水や食べ物を供えた。
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2ヵ月後の4月、次女の友理が誕生。
そして夏、黒柳朝いわく
「バイオリンしか弾いたことがない、体力もなく足も弱く、まったく役に立ちそうにない肩書と年齢」
の37歳の黒柳守綱に赤紙の招集状が届いた。
黒柳朝は、
「肉は豚も鶏もダメで牛肉だけ、魚も大嫌いという人がどうやって軍隊生活をやっていくんだろう」
と思ったが、入隊まで2日しかなく、黒柳守綱は令状に従い、まず床屋に行って坊主頭に。
令状にはビール瓶1本持参せよとも書いてあり、黒柳朝は、
「この瓶に遺言下手紙を入れてどこかの海から流すのかしら?」
と思ったが、配布できなくなった水筒の代わりだった。
入隊当日、割烹着をつけた国防婦人会や町会の男性など、日の丸の紙の小旗を持った大勢の人が家の前にいた。
黒柳守綱は、寄せ書きが書かれた大の日の丸の旗を折って袈裟懸けに背負い、手には洗面用具やビール瓶が入った袋といういでだちで、見送りに来てくれた人たちに挨拶。
一行は目蒲線の足洗駅まで歩き、そこで最後のお見送り。
この頃、日本では
「鬼畜米英」
「一億火の玉」
「一億国民武装」
「大和一致」
という言葉が流行っていたが、このときの黒柳朝の気持ちは、
「ただただバカバカしく腹立たしい」
一方、黒柳守綱は、敵国の音楽として演奏ができない状況が続いていた上、1番可愛がっていた明児を失うという大変なショックの後だったので
「もうこれ以上の苦しみはない。
矢でも鉄砲でも飛んで来い」
というヤケッパチな気持ちだった。
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黒柳守綱が麻布の連隊に入隊して10日後、赤坂の小学校で面会できることを知らせるハガキが届いた。
「これが最後になるかもしれない」
と思った黒柳朝は、
「パパが歩いても痛まないように」
と固い台紙に貼りつけた子供たちと一緒に写した写真、そして
「1日に何回も手を洗う人だから」
と固い石鹸などを準備。
前日には煮しめやいなり寿司などをつくり、当日、黒紋付きの羽織を着て、徹子、紀明、4ヵ月になる友里、そして黒柳守綱の母親と一緒に赤坂の小学校の校庭へ出かけた。
子供たちは大勢の兵隊さんの中から、いち早く父親を発見し
「パパ!」
といってかけよっていった。
ステージで燕尾服を着ていた黒柳守綱は、ゲートル(脚絆、下腿に巻く革製の布)と地下足袋をつけて、腰にビール瓶を下げていた。
黒柳朝は号泣し
「日本の妻は夫を見送るのに泣くもんじゃないよ」
と姑に叱られた。
面会時間、3時間はアッという間に過ぎ、
「じゃあ」
といわれ、黒柳朝が荷物を渡すと黒柳守綱は喜んで受け取った。
いってしまう黒柳守綱を見送りながら、手拭いを渡すのを忘れたことに気づいた黒柳朝が
「パパ」
と追いかけようとすると、そばにいた兵隊が
「届けてあげましょう」
といって手を出した。
「いいです。
私が持っていきます」
と黒柳朝が断ると、横から姑が手拭いをとって
「守さん」
と叫びながら追いかけていった。
ボーっとそれをみていると上官らしき人がやってきて、
「今日の夕方、品川駅から列車に乗ります。
品川駅に行けばもう1度お会いになれますよ」
と教えてくれた。
帰ってきた姑は、
「朝さん、私ゃ手拭い1本だってだまされてとられやしませんよ」
といった。
手拭いといえども貴重なときだったが、黒柳朝は
「この場所で人の手拭いを騙し取る人がいるのだろうか?」
と不思議に思った。
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姑と別れた後、黒柳朝は子供たちと一緒に品川駅へ。
辺りが暗くなりはじめ、夜が訪れようとする19時、遠くから
「ザクッザクッ」
というという靴音がし、暗がりから整列した何百人という兵隊が入ってきた。
顔の見分けがつかず、黒柳朝は子供の手を引きながら夢中で列の横についていった。
(必ず見つかる、必ず見つかる)
と自分に言い聞かせながら歩いていると
「キャー、ママ、ママ」
という悲鳴。
みると転んでいる黒柳徹子がいた。
次の瞬間、列の中から
「トット助!」
という声がした。
その後、黒柳朝と黒柳徹子は黒柳守綱の手にすがりつき、一緒に歩いていった。
外が真っ暗になった頃、黒柳守綱は軍用列車に乗せられ、どこかへ行ってしまった。
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東京都は、地方の親戚などへ個々に疎開する縁故疎開を進めていたが、さらに「学童疎開本部」を設置し、児童約47万4,000人のうち、3~6年生までの約20万3,000人を14県に疎開させた。
テレビはまだなく、国はラジオで国民に
「日本は勝っている」
と伝えていたが、トモエ学園でも避難する数が増え、黒柳徹子は、
「勝っているなんていうわりにしょっちゅう空襲がくるんだな」
と不思議に思った。
学校は毎日あったが、店は全部閉まっていて、食料は配給のみ。
「これしかないから考えて食べてね」
と黒柳朝に渡される大豆15粒が1日の食糧で常に空腹だった。
やがて大豆も配給されなくなると栄養失調になり、体中におできができて、爪の下が腫れて膿んできた。
自由が丘の駅で戦地に赴く兵隊を旗を振って見送ると裂いたスルメを1本もらえ、黒柳徹子も駅に人が集まっているとその中に入っていった。
「ただスルメが欲しかったのです。
後になって、そのことが私の中に大きな罪の意識として残りました。
私が送った兵隊さんの中には戦死して帰ってこなかった人もいた・・・」
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1945年3月9日深夜から翌10日明け方にかけて300機のB29が東京を空襲。
街は雨のように降り注いだ焼夷弾によって焼き尽くされ、死約10万人が死亡し、26万7,000戸の家屋が全焼し、約100万人が焼き出された。
黒柳徹子が通っていたトモエ学園は焼失も消失し、黒柳朝は、前年の夏休みに北海道にいった帰り、汽車で隣り合わせた青森県の農家の「おじさん」を頼って、疎開。
魚が食べられるようになると黒柳徹子の栄養失調はすぐに治った。
「戦時中、私は栄養失調で、おできが体中にできていました。
それが膿んで、全身がドキンドキンと脈打つあの感覚。
疎開先の青森でお魚を食べたら、おできがすぐ治って、タンパク質の大切さを痛感しました 」
疎開中、子供たちはリンゴの袋貼りをやらされたが、他の子供がすぐに飽きてやめてしまう中
「飽きない性分なの」
という黒柳徹子は延々と続け
「おめ、飽ぎねーのか?」
と聞かれても
「飽ぎね」
と答え、いつまでも作業を続けた。
疎開中、黒柳朝は、青森県三戸郡と八戸を何度も往復して農作物を売った。
友理のおたふくかぜがこじれて切開しなければならなくなったが田舎で病院がなく、黒柳朝は、往復約16㎞を友理を背負って通った。
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1945年8月15日、終戦。
黒柳朝は、子供たちと一緒に青森の疎開先から東京に帰った。
平和は訪れたが東京は焼け野原。
食べものもなく、住む家もなく、着の身着のままの生活し、仕事がない人も多く、自家製の防空壕にブリキの屋根を載せてモグラのように暮らしている人もいた。
しかし黒柳朝は、大工に頼んで白い壁に赤い屋根の小さな家を建てることができた。
「12坪で13万円だった」
黒柳守綱は、生きているのか、死んでいるのか、いつ帰ってくるのか、すべて不明。
消息がわからない夫を持つのはつらく、夫をあきらめて結婚し子供ができた頃にひょっこり夫が帰ってくるなどという話もに日常的に聞かれたが、黒柳朝は、
「夫の代わりはあっても子供の父親はかけがえはない」
と思い、生活物資の極端に乏しい中、青森と東京を何度も往復して農作物を売り、配給の小麦粉やミルクを貯めてお菓子を作ったり、手持ちに物を売ったり物々交換したり、古い着物を洋服に作り替えたり、質屋にも通って頑張った。
1日の疲れは、元気で成長する子供たちの笑顔で癒し、
「明日は今日よりいいことがある」
と思い続けた。
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黒柳朝は、毎日、子供と一緒に祈り、賛美歌を歌って暮らしていたが、東京はコソ泥、空き巣、かっぱらい、詐欺などが横行し混とんとしていた。
ある日、30歳くらいの女性が玄関に入ってきて、目に涙をいっぱいに貯めながら
「子供がハシカにかかり、その上肺炎まで併発してしまったんです。
入院しないと命が危ないのですがお金がないんです。奥さん、どうぞ助けると思って、この生地を買っていただけないでしょうか?」
と話し、ウールだという生地を差し出した。
「いくらでもいいんです。
買っていただきさえすれば」
自分の子供がハシカを患った経験がある黒柳朝は
(その上、肺炎になったら大変・・・
今、この瞬間だって子供のことが気になっているでしょうに・・・)
とかわいそうでかわいそうで仕方なく、
「今手元にお金はないけれど、郵便局に行けばなんとかなるわ。
貯金を払い戻してあげますからね」
渋る女性を
「行きましょう。
何も遠慮することはないのよ」
と急き立てて郵便局にいき、貯金を全部引き出し、3千円を渡した。
「ちょっと待ってね。
私の友達が水あめを売っているの。
すぐそこだから、お子さんのお土産にもっていってね」
といって水あめを買って彼女に持たせて駅まで送っていって、
「お子さん、お大事にね」
といって別れた。
後日、近所の人に生地をみせると
「エッ、引ひっかかっちゃったのぉ?
あの女はね、名うての詐欺師なのよぉ。
子供が病気だといったでしょう」
黒柳朝は自分のバカさ加減にあきれ、恥ずかしさと悔しさで1人地団太を踏んだ。
半年後、警察から人に会ってもらいたいと呼び出され、行ってみると見覚えのある女性が横向き加減で座っていた。
「あの節はどうも・・・」
自分であきれながら、相手からいわれるべき言葉をいってしまい、黒柳朝は自分にあきれた。
すると相手は少し頭を下げ、刑事は
「何が、あの節はどうもですか」
とたしなめた。
黒柳朝は、自分が被害にあった後、彼女がかなり大きな詐欺を働いたことを知った。
帰り道、
「私のように簡単に騙される人間が彼女を悪くしていったのではないか?」
「私の行為は善意とはいえ、彼女のよこしまな心をより増長させる結果になってしまったのではないか」
「彼女に子供がいるかどうかも怪しいけど、もし本当にいたとしたら母親が刑務所にいる間、どうしているのかしら」
などと思い、落ち込んだ。

NettyLand 学校紹介動画 香蘭女学校中等科・高等科

1949年4月、黒柳徹子が、イギリス系のミッションスクール(キリスト教の教えを教育理念に掲げる学校)、香蘭女学校に入学。
中高を過ごす香蘭女学校は、乱暴な言葉を使うと
「あなた、駅で乱暴な言葉を使ってらっしゃったんじゃない?
お気をつけにならないと。
香蘭の生徒として恥ずかしいとお思いにならない?」
と注意されるなど言葉遣いに厳しかった。
正しい敬語を意識し始めた黒柳徹子は
『そうよ』

「そうですよ」

『食べる?』

「召し上がる?」

『そっち、そっちに回って』

「そちらよ、そちらにお回りになって」
に変化。
最終的には
「~あそばせ」
をさりげなく使えるようになった。
黒柳朝の友人が家を訪ねてきたとき、
「母はただいま出かけております。
父はシベリアにいっております。
おことづけがあれば伺います。
ただシベリアの父への伝言はいつになるかわかりません」
と対応し
「お利口ね」
とホメてもらった。
また別のお客様にあいさつしたとき、黒柳徹子は、
「あら、お父さんもお母さんもおキレイなのにね」
と少し失礼なことをいわれた。
黒柳朝は即座に
「素直なだけが取り柄です」
といい、黒柳徹子は、それを聞いて
(きれいより素直なのがいいんだ)
と思った。

『怪獣大戦争』より"クラブ 「星の花」 BGM II"


黒柳徹子が香蘭女学校に入学した8ヵ月後、12月末、生死不明だった黒柳守綱が帰ってきた。
1944年に出征した黒柳守綱は、1945年に戦争が終わったとき、中国北部におり、北朝鮮に戻ったときにソ連の捕虜になった。
そしてシベリアに抑留され、極寒の中、過酷な強制労働と粗末な食事で栄養失調で仲間がバタバタ倒れていく中、
「こんなとこで死んでたまるか。
あの楽しくて恋しい家に帰らずに死ねるか」
と思いながらどんなツラいことにも耐え、暴力を受ければ
「ママにつらく当たった報いを受けているんだ」
と我慢と反省を続けた。
(だから復員後、黒柳朝に暴力をふるうことはなくなった]
同じく抑留されていた合唱指揮者、北川剛、チェリスト、井上頼豊らと「沿海州楽劇団」としてハバロフスク地方沿海部の日本軍捕虜収容所の巡回・慰問。
そして1949年11月22日、日本への引揚船、高砂丸の中で、疲れ切った人々を励ますようにバイオリンを弾いた。
家族に再会した黒柳守綱は、笑顔で駆け寄ってくる黒柳徹子に、
「ただいま、トット助!」
とうれしそうにいった。
そして復員後、すぐに(新交響楽団から改称された)日本交響楽団のコンサートマスターに復帰し、労働でゴツゴツになった指でバイオリンを弾き、数年後、映画「ゴジラ」第1作で、テーマ音楽を演奏した。
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