ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1950年後半版)
2017年6月21日 更新

ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1950年後半版)

1950年後半は、私がちょうど幼児期を脱しようとする時期であり、また外部からの刺激を積極的に取り入れようとしていた時期と重なります。ちょうどこの頃にハリウッド製の超大作スペクタクル映画が何本も封切され、両親と一緒に映画館に見に行きましたが、あまりの臨場感に恐怖感を憶えたことも多々ありました。そんな映画を年代別に集めてみました。

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70mm映画上映も可能なシネマ劇場

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超大作映画は、こういった大劇場で見たいものです。
臨場感がぜんぜん違います!!。

映画を映す側が窪んでいるのが特徴です。

1950年後半の超大作映画といえば、『ジャイアンツ』(原題:Giant)からかな!?

『ジャイアンツ』(じゃいあんつ、原題:Giant)

『ジャイアンツ』(原題:Giant)は、1956年公開のアメリカ映画であり、第29回(1956年)アカデミー監督賞(ジョージ・スティーヴンス)を獲得した。主演には、ロック・ハドソン(撮影当時28歳)、エリザベス・テイラー(当時23歳)、ジェームズ・ディーンの3名が抜擢されたが、ディーンは、この作品の撮影終了後の1955年9月30日、交通事故により24歳で急死した。
物語は、テキサスにおける古い時代(牛の放牧)から新しい時代(石油文明)への30年に及ぶ流れである。
大牧場主ビック・ベネディクト(ロック・ハドソン)と東部から嫁いだレズリー(エリザベス・テイラー)の夫婦の多彩な人生を描く中に、二人に生まれた3人の子供、使用人のレズリーに恋心を持ったジェット・リンク(ジェームズ・ディーン)の生き様を織りまぜて、アメリカ社会における色々な問題点を浮き彫りにしている。例えば、大牧場主や石油王という財力の社会の意味、南部に残る人種差別と使用人の非人間的扱いの社会、また第二次世界大戦の戦争によって若い命が失われるという悲惨な状況・・・などである。

『ジャイアンツ』出演陣の横顔紹介

ロック・ハドソン(Rock Hudson)

ロック・ハドソン(Rock Hudson)

ロック・ハドソン(Rock Hudson、1925年11月17日 – 1985年10月2日)は、米国出身の俳優。本名はRoy Harold Scherer Jr.。5歳の時に父が家出し8歳の時には母が再婚。10歳から働きに出るという恵まれない環境で育つ。高校を卒業すると海軍に入隊して飛行機の整備士としてフィリピンに駐屯。46年の除隊後、俳優を志して家出した父のいるLAへ渡る。トラックの運転手や郵便配達人のバイトをしていた時にスカウトされ、48年「特攻戦闘機中隊」の端役で映画デビューする。翌年にはユニヴァーサルと契約。アクション・スターとして売り出されるがうまく行かず、ラヴ&コメディの二枚目俳優として再スタートを切り人気者となった。その後代表作となった「心のともしび」、「ジャイアンツ」、「武器よさらば」といった大作に主演。57年から7年間もの間、マネー・ランキングの上位に顔を出し、59年からはドリス・デイと共演して「夜は楽しく」、「「恋人よ帰れ」などで話題となった。71年からはTVシリーズ「署長マクミラン」に主演している。55年に結婚しているが3年後に離婚。ハリウッドを代表する二枚目スターとして知られていたが実はホモセクシャルで、AIDSによって85年に死亡。AIDS患者となった最初の有名人として話題になった。
エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)

エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)

エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE、1932年2月27日 - 2011年3月23日)は、英国出身の女優。少女時代から米国の映画会社MGMで子役として映画出演していて、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色の瞳で知られていた。
本名はElizabeth Rosemond Taylor。美術商をしていた父の関係で39年に渡米し、ビバリーヒルズに住む。女優志望だった母に夢を託され、ご近所のツテを頼って42年にユニヴァーサル作品“There's One Born Every Minute”の端役で映画デビュー。翌年MGMと契約し、スタジオ内の学校に通いながら「家路」に出演。以降「緑園の天使」、「若草物語」、「陽のあたる場所」、「ジャイアンツ」等々、幼い頃から醸し出していた大人の雰囲気で映画ファンを魅了し、“リズ”の愛称で親しまれた。50年代後半からは名実共に円熟味を増し、「愛情の花咲く樹」、「熱いトタン屋根の猫」、「去年の夏突然に」と3年連続でアカデミー賞にノミネートされ、60年には「バタフィールド8」で主演賞を受賞。63年には「クレオパトラ」に出演。撮影中に大病を患ったりしたが、66年には「バージニア・ウルフなんかこわくない」で2度目のアカデミー賞を受賞。70年以降はさすがに年と共に人気にも陰りが見え始めるが、80年代からはブロードウェイへ進出。そこでも成功を収めて舞台女優として活躍し、TVにも積極的に出演。87年にレジョン・ドヌール勲章を受けるほか、香水“パッション”、“ホワイト・ダイヤモンズ”を売り出すなどした。84年からはエイズ撲滅運動に目を向け、翌年研究財団AmFARを設立。91年にはエリザベス・テイラー・エイズ財団も設立し、その功績を称えて93年にアカデミーのジーン・ハーシ賞を受賞した。さて、エリザベス・テイラーといえば結婚遍歴が付き物。15歳の頃から共演者や大富豪の息子たちとの噂は絶えることなかったが、最初の結婚は18歳の時の50年、ホテル王の息子、コンラッド・ヒルトン・ジュニアと。しかし1年と経たずに離婚。52年に撮影先で知り合ったマイケル・ワイルディングと結ばれ二人の息子が生れるが、プロデユーサーのマイケル・トッドと恋に落ちて57年に離婚。その3日後にトッドと結婚するが彼が飛行機事故で58年に死亡。落ちこんでいた彼女を(当時デビー・レイノルズと結婚していた)歌手のエディ・フィッシャーが励まし、不倫関係に発展。59年に世の非難の中結婚した。その後「クレオパトラ」で共演したリチャード・バートンといい仲になり、こちらも大スキャンダルとなったが(当時のバートンはもちろん妻子持ち)64年、リズ離婚後の9日目に再婚。リチャード・バートンとは以降多数の作品に共演するが、74年、彼のアルコール中毒がもとで離婚。翌年よりを戻して再婚するがわずか10ヶ月ではたまた破局。76年に上院議員、ジョン・ワーナー、91年にはラリー・フォーテンスキーと再婚したがいずれも離婚し、結婚回数はバートンとの二度の結婚を含めて8回となった。11年、うっ血性心不全のため死去。79年の人生だった。
ジェームズ・ディーン(James Dean)

ジェームズ・ディーン(James Dean)

ジェームズ・バイロン・ディーン(James Byron Dean、1931年2月8日 - 1955年9月30日)は、米国出身の俳優。ジミー・ディーン(Jimmy Dean)とも呼ばれる。
幼き頃に母を亡くし、叔母夫婦の元に預けられる。49年、再婚した父に引き取られてカリフォルニア州サンタモニカに渡り、ジュニア・カレッジ演劇科に入学。50年、父の勧めでカリフォルニア大学の法学部に進むが演技への執着から演劇科へ移行。エキストラとして活動を始める。が芽が出ずニューヨークへ移りブロードウェイの舞台のチャンスを得た(この頃アクターズ・スタジオにも入学。同期にはポール・ニューマンやマーロン・ブランドがいた)。そこで『背徳者』の出演中、監督エリア・カザンの目に止まり「エデンの東」へ大抜擢される。微妙に揺れるティーン・エイジの青年を魅力的に演じ一挙にスター・ダムにのしあがる。その後、爆発的な人気と共に「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」と主演するが「ジャイアンツ」撮影終了間際の55年9月30日、愛車ポルシェ・スパイダーで正面衝突し事故死。24歳の若さでこの世を去った。

『ジャイアンツ』と同じ年に公開された『戦争と平和』も大作中の大作だ!!

『戦争と平和』(せんそうとへいわ、原題:War and...

『戦争と平和』(せんそうとへいわ、原題:War and Peace)

レフ・トルストイの小説「戦争と平和」の映画化で1956年に製作・公開されたイタリアと米国の合作映画。出演は、オードリー・ヘプバーン、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラー。
1812年のナポレオン率いるフランス軍の帝政ロシア侵攻を縦糸に、ロシア貴族の三つの家族を含む500人の人物を横糸に、文豪トルストイが1865年から1869年にかけて執筆した大河ドラマを基にして、1956年にハリウッドが全力をあげて製作したドラマである。
4巻にも渡る長い小説を、他はできるだけ省いて、ベズコフ伯爵の庶子であるピエール (ヘンリー・フォンダ)、彼の無二の親友アンドレイ公爵(メル・ファーラー)、そしてロストフ伯爵家の娘ナターシャ(オードリー・ヘップバーン) の三人の愛情の縺れを中心に描いている。

実は、同様の題材で1967年にソ連が威信をかけた7時間の作品を作成していますが、当時では、オードリー・ヘップバーンが出演したこの作品が「戦争と平和」の初めての映画化のようです。

『戦争と平和』出演陣の横顔紹介

ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)

ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)

ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda、1905年5月16日 - 1982年8月12日)は、米国国の映画俳優、製作者。俳優のジェーン・フォンダとピーター・フォンダは2番目の妻との間の子。本名はHenry Jaynes Fonda
彼は印刷工場を営むイタリア系移民の長男として生まれ、幼い頃から絵や文学の才能に恵まれ、12歳の時にはニュース映画で映画デビューを果たす。新聞記者を目指して大学でジャーナリズムを専攻するが2年目に中退。 20歳の時、マーロン・ブランドの母親ドロシー・ブランドの薦めでアマチュア劇団「オマハ・コミュニティ・プレイハウス」に参加し、25年に初舞台を踏む。 舞台のシーズンが終了すると、小売信用会社の事務員として働き始めるが、演劇の魅力に魅せられたフォンダは、仕事を辞めて俳優になることを選び、28年にはジョシュア・ローガン、ジェームズ・スチュワート、マーガレット・サリヴァンらが参加する「ユニバーシティ・プレイヤーズ・グループ」に入団。フォンダはサリヴァンと恋に落ち31年に結婚するが、長くは続かず2年後に離婚する。 離婚後はローガンやスチュワートらと共にニューヨークに移り、アパートを借りて共同生活をしながら、地方の舞台への出演や舞台装置家として働いていた。34年のレビュー『ロウ・アンド・ビホールド』でのパフォーマンスが高い評価を獲得し、翌年には『運河のそよ風』の主役に抜擢される。 この舞台の成功によってハリウッドに招かれ、同作の映画版でハリウッド・デビューを果たし、誠実な好青年のイメージが好評を博して続く『東への道』(35)や『丘の一本松』(36)でも似たようなキャラクターを演じる。 しかし、タイプキャストを嫌うフォンダはフリッツ・ラング監督のスリラー『暗黒街の銃弾』(37)や、ウィリアム・ワイラー監督のコスチューム・ドラマ『黒蘭の女』(38)などで固定したイメージに囚われずに様々な役をこなしてゆく。 36年にはニューヨーク社交界の大物シーモア家の娘フランシスと再婚。2人の間にはジェーンとピーターが生まれた。 39年には青年時代のリンカーンを演じた『若き日のリンカーン』と、南北戦争を舞台にした恋愛ドラマ『モホークの太鼓』の2本のジョン・フォード監督作に相次いで出演。 20世紀フォックス社と7年の専属契約を結び、40年には再びフォードと組んでジョン・スタインベックの小説の映画化『怒りの葡萄』に出演。当り役となった主人公トム・ジョードを熱演して初のアカデミー主演男優賞にノミネートされた。 41年にはパラマウント社に貸し出されてスクリューボール・コメディ『レディ・イヴ』に出演し、シリアスな顔でドタバタ演技を披露して観客を大いに笑わせる。 第二次世界大戦中は海軍に入隊。武功を上げて青銅星章と大統領感状が与えられる。 除隊後は再びフォード監督と組んで、OK牧場の決闘を詩情豊かに描いた『荒野の決闘』(46)でワイアット・アープを好演。 翌年の『逃亡者』(47)と48年の『アパッチ砦』でもフォードと組んで、フォード映画には欠かせない俳優の一人となる。 47年にはフォックスとの専属契約を破棄して、親友ジョシュア・ローガンの舞台劇『ミスタア・ロバーツ』に出演。軍隊での経験を生かした彼の演技は舞台と共に絶賛されてトニー賞の主演男優賞を獲得し、7年もの間ロバーツ役を演じつづけた。 55年の映画版『ミスタア・ロバーツ』でもロバーツを演じたが、フォンダは演出を担当したフォードのやり方に満足できずに、二人は激しく対立してしまい、これがフォードと組んだ最後の映画となってしまう。 好調な俳優活動とは反対に、フランシスとの夫婦関係は悪化し、50年にフランシスは家庭を顧みずに浮気を繰り返す夫を苦に自殺。フォンダは子供達を動揺させないために母親は心臓発作で死んだと教えた。 50年代は『シーソーの二人』や『ケイン号の叛乱』などの舞台や、テレビ・シリーズ『胸に輝く銀の星』など映画以外のメディアでも幅広く活躍。 映画ではアルフレッド・ヒッチコック監督のセミ・ドキュメンタリー・サスペンス『間違えられた男』(56)や、自ら製作を務めた骨太の法廷ドラマ『十二人の怒れる男』(57)などの興行成績を度外視した質の高い作品に出演して名演技を披露する。 60年代に入ると『ベスト・マン』(64)や『未知への飛行』(64)で手堅い演技を見せ、68年にはセルジオ・レオーネ監督の『ウェスタン』では冷酷非常な殺し屋を演じて新境地を開拓。 70年代以降は主演作は減り『ミッドウェイ』(76)、『テンタクルズ』(77)、『スウォーム』(78)、『メテオ』(79)などのオールスター映画にゲスト出演する。 フランシスとの間に生まれたジェーンとピーターは父親の後を追って俳優になるが、母親の死の真相を知った二人と父親の関係は次第に悪化し、ジェーンとピーター共に俳優として成功した後も、過激な振る舞いでマスコミを賑わせてフォンダを悩ませた。 やがて、二人は父親と和解し、ピーターは自分の監督作『ワンダ・ネヴァダ』(77)に父親をカメオ出演させ、ジェーンは年老いた父親のために『黄昏』(81)を企画。 娘と初共演した今作で、フォンダはキャサリン・ヘプバーンを共演者に迎えて年老いた頑固な老夫婦を熱演。フォンダは念願のアカデミー主演男優賞を獲得し、これが遺作となって授賞式の5ヵ月後にこの世を去った。
オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)

オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)

オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、英国人で、米国の女優。本名はAndrey Kathleen Ruston。貿易商の父とオランダ貴族出身の母の下に生まれ、5歳の時に戦争のためイギリスへ渡りロンドン郊外の寄宿学校に通う。10歳の時、両親が離婚したのをきっかけに、母と共にオランダに移住しバレエのレッスンを始めた。以後、戦火の中、モデルなどをして生計を立て、48年、単身ロンドンに渡りマリー・ランバート・バレエ学校に入学。プロとして舞台デビューを果たす。50年に端役として映画に出演。以降、数本の作品に出演した後、51年、撮影中に『ジジ』の原作者であるコレット女史と出会い、同作のブロードウェイ公演で主役に抜擢される。その舞台を見たウィリアム・ワイラーにより53年「ローマの休日」にて主役の座を獲得。作品の大ヒットと共にアカデミー主演女優賞を受賞し、一大ブームを巻き起こす。以後はスター街道を突き進み「麗しのサブリナ」、「尼僧物語」、「ティファニーで朝食を」、「暗くなるまで待って」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。メル・ファーラーとの間にショーンをもうけた後、68年に離婚。翌年精神科医と結婚するも一児を残してこちらも離婚に至っている。晩年はユニセフに親善大使として参加。ソマリアで難民救済に力を注いでいた。93年直腸ガンのため、63歳でこの世を去った。しかし今なおCMなどに彼女の映像が使われているように、“永遠の妖精”はいつまでもその清純な美しさで我々を魅了し続けてくれるであろう。
メル・ファーラー(Mel Ferrer)

メル・ファーラー(Mel Ferrer)

メル・ファーラー(Mel Ferrer、1917年8月25日 - 2008年6月2日)は米国の俳優、映画監督、プロデューサー。本名はMelchior Gaston Ferrer。NY社交界の名士の息子として生まれる。名門プリンストン大を中退後、在学中から続けていたプレイ・ハウスを卒業。メキシコで子供向けの本を執筆した後、ヴァーモントの出版社に勤務しながら演劇に身を投じていた。やがて主役を演じるようになって会社を退職、ブロードウェイなどに出演するようになる。その傍らでは放送局に入ってDJからNBCのディレクター兼プロデューサーになる。映画界へは監督として45年にコロムビアと契約。しかし役者への道を捨てきれなかったのか同年俳優としてもデビューした。私生活では4度の結婚歴があり、中でも54年にブロードウェイで共演したヘプバーンとの結婚は当時話題になり、幾つかの作品で共演や製作を手掛け、息子も誕生したが68年に離婚。その他、カトリーヌ・ドヌーブなどとの噂もあった。08年6月に90歳で死亡。

今世紀の戦争物で必ず上位に食い込む『戦場に架ける橋』が1957年に公開!!

『戦場にかける橋』(せんじょうにかけるはし、The B...

『戦場にかける橋』(せんじょうにかけるはし、The Bridge on The River Kwai)

1957年公開の英・米合作映画。第30回アカデミー賞作品賞受賞作品。巨匠D・リーンが、第二次大戦を背景に戦争の愚かさと人間の尊厳を描き出した不朽の名作。主演は、アレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲。
タイとビルマの国境近くにある日本軍の捕虜収容所では、連合軍捕虜を使って、国境に流れるクワイ河に橋を架ける準備が進められていた。だが、英軍大佐(アレック・ギネス)はジュネーヴ協定に反するとして、所長(早川雪洲)と対立。一方、米軍捕虜の海軍少佐(ウィリアム・ホールデン)は脱走を試み、辛くも収容所を後にした。英軍大佐の気骨に共感した所長は、捕虜の恩赦を条件に再度協力を要請。捕虜たちに生きがいを与えようと考えていた大佐はこれを承諾し、こうして建設工事が始まった。だが同時に、生き延びた米海軍少佐の手引きによって、連合軍による架橋爆破作戦も開始されようとしていた・・・。
戦後50年を過ぎ、次第に明らかになってきた戦中当時の証言によれば、日本軍の行った捕虜を使っての労役にはもっと非人道的なものがあり、この映画で描かれているような事は絵空事でしかないのだろうが、その事実とこの作品の良さは別次元で語られるべきであろう。我々にはもはやこの“戦争映画”は寓話としてしか観る事ができないかもしれないが、その寓話は非常に感動的で、人間ドラマとしての素晴らしさ、スペクタクルの醍醐味を持っているのだ。アカデミー作品・監督・脚色・主演男優(アレックス・ギネス)・編集・撮影・音楽賞受賞。脚本のM・ウィルソンとC・フォアマンは当時赤狩りの疑いをかけられていたためクレジットを削除されていたが、1984年のアカデミーで改めてこれを表彰、後に製作されたドルビー改訂版ではクレジットも復活した(C・ウィリンガムは元々クレジットされていない)。

『戦場にかける橋』出演陣の横顔紹介

アレック・ギネス(Sir Alec Guinness)

アレック・ギネス(Sir Alec Guinness)

アレック・ギネス(Sir Alec Guinness, CH, CBE、1914年4月2日 - 2000年8月5日)は、英国の俳優。
本名はAlec Guinness de Cuffe。学生時代に演劇の虜となり、卒業後数ヶ月広告会社に勤めるがその後演劇学校に入る。34年通行人役で舞台に立ち、やがてジョン・ギールグッドに認められ彼の劇団に参加。『ハムレット』などに出演してその実力をメキメキと発揮して行く。第二次大戦は海軍に入隊。戦後の46年、「大いなる遺産」で本格的に映画デビュー。翌年には「オリヴァ・ツイスト」で強烈な印象を残す。57年“THE HORSE'S MOUTH”でアカデミー主演賞にノミネート。57年には「戦場にかける橋」で英軍大佐を演じて同賞を受賞。翌年には“THE HORSE'S MOUTH”の脚本を手掛け同脚本賞候補に昇り、更に翌年にはこれまでの功績を称えてサーの称号が与えられた。以降は準主役級の役から次第に脇役にまわるようになるが円熟味を増した演技力で確実に役柄を捉えて好演。77年には「スター・ウォーズ」でジェダイ・マスターのオビワン・ケノービを演じて若い映画ファンにも親しまれた。80年、アカデミー名誉賞を受賞。38年に舞台女優と結婚。一人息子も舞台俳優に。00年、肝臓ガンのためこの世を去った。
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