大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。
2017年3月28日 更新

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」

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下剋上

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監督は、1軍、2軍、3軍、4軍、5軍の練習をザッとみて
「アイツはアカンから3軍へ落とせ。」
「アイツはいいから2軍に上げろ。」
などとキャプテンにいう。
するとキャプテンは
「お前はここへ入れ・」
「お前はこのグループへ入れ・」
と指示して、何も教えない。
そして選手は、そのチームでやるだけだった。
だから自分の力で1人ずつ落として上がっていくしかないシステムだった。
先輩は後輩に教えるのが普通だが、人に教えていたら自分が落ちてしまう、抜かれてしまうと思って教えない先輩もいる。
みんな敵というわけである。
「1、2、3軍くらいの練習は猛烈にキツいですよ。
それにみんなレギュラーになろうとするから自分の競争相手を倒そうとする。
非常に厳しいものだった。
ものすごいキツい練習に上に競争意識が非常に強かったということです。
つくづく1軍の選手になるには、レギュラーになるのは大変だなと思った。
去年レギュラーをやっていた選手でも下から追いかけられて落とされる人がドンドン出てくる。
そういう練習の中で日本一のチームができていった。」

「今の選手は感受性が非常に鈍くなっているのではないかな。」

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練習ノルマは合同練習形式で2時間だけだったが、合理的で、密度が濃くキツかった。
その後は自主練習、自由練習となった。
遊びに行きたい者は、風呂に入って、遊びに行き
練習したい者は、20個のボールを分け合って、5人くらいのグループとなって暗くなるまで熱心に練習した。
練習方法は、グループで話し合ったり、本で研究したりした。
「今は誰でも教えてもらえるから気が入らないんだよ。
もっと自分でまずうまい選手のプレーを盗んでみることをやらんと身につかん。
やはり自分で研究したものは自分のみにつくものです。
その頃のラグビー本というと、ラグビーフットボール、新式ラグビー、それに早稲田の西尾、兼子両氏の本が2冊、慶応のラグビー部から出た翻訳本が1冊、これくらいしかなかった。
それを一生懸命呼んで勉強した。
あとは原書。
ルールなんて全部、原書でやった。
おかしいじゃないか、ここはそういう解釈じゃないなとかいっていろいろ議論したもんだ。
技術は盗むもので真似るのはダメ。
うまいのを見て盗む。
それが選手が伸びるために1番重要ではないでしょうか。
これは感受性と非常に関係がある。
勢いよく走って次の動作をするというようなことを、感受性の強い天才みたいな人だと、パッと見たら2日ほどでそれをやりますよ。
今の選手はどうもそういう感受性が非常に鈍くなっているのではないかな。
僕たちは教えてくれなかったから、それを何とかしてつかもうとした。
今そういうのが要らなくなったから、その分その勘が弱くなったのではないかという気がするんです。
例えばカール・ルイスが走るというと、今の選手はビデオか何かで撮るでしょう。
私は「何撮っているんや、見ろ」という。
そうすると「これ撮ったら後で何ぼでも見れます」という。
だが私は「アホタレそんなもん実物と違うわい」というのです。
一生懸命見ろと、そこで盗まなければダメだと、本物は盗まないとね。
本物が訴える力と映像の訴える力とは全然違うんです。
その訴える力をつかまなければ本物ではない。
今の練習法に欠けているのはそこだと思う。
昔は「これ今見ておかないともう1回見られん」と思うから真剣に見たわけです。
有名選手が向こうから来るでしょ。
そうしたらその試合を日本で6試合やるのを6回しか見れないぞと思うから一生懸命見る。
ちょっと今は違うような気がする。
国際試合を見た後で感想などを学生などに聞くのですが、みんなアホみたいなことをいっている。
そんなことではダメなんですけどね。」
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1年生の新入部員は、春が過ぎて夏合宿に終わるまではキツい練習が課せられた。
夏合宿が終わるころに30人いた1年は半分くらいになった。
それはまるでふるいにかけて退部するのを待っているような練習だった。
「そのうち夏休みになるわけです。
夏合宿がこれがまたキツい。
そのころは明治は、富士吉田で夏合宿やって、毎日、富士山を駆け足でやるという練習をやったときですから、各大学が夏合宿で勝つか負けるかが決まると思って練習していたのです。
早稲田もものすごい練習で、僕が1年のときは菅平で3人くらい脱走して帰ってしまった。
そのくらいキツい練習をやったわけです。」
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しかし秋になると練習はそれほどキツくなくなった。
試合が始まるからである。
早稲田大学の目標は、明治大学と慶応大学だった。
当時の日本の大学ラグビーは、明治と早稲田が覇を競い合い、そこに慶応がからんでくるという感じだった。
毎年、12月の第1日曜は早稲田-明治戦が行われるのが恒例である。
この試合は大変劇的な試合が多く名勝負が多く生まれている。
この年(昭和9年)の試合は、試合前の下馬評は5分5分。
早稲田は7年、8年に続く3連覇を狙っていた。
神宮外苑競技場は満員でインゴールの外に観客がはみ出た。
1円の入場券がヤミで5円に跳ね上がった。
そんな騒ぎの中、両校は激突した。
早稲田の監督(大西の兄)は、前夜(といっても夜中)、選手の名を墨書きした白装束を着て水をかぶって精進し気合を入れていた。
前半は明治が攻め続け点差が開いた。
しかし後半は早稲田が攻め大接戦になった。
後半32分(当時は前後半35分)
試合残り3分で早稲田がゴールをとって24対19。
もう1つとれば3連覇となる場面。
(当時は1ゴール5点)
早稲田はゆさぶりで明治陣内奥深くで絶好のボールを回した。
観衆は総立ちになった。
1番最後にウイングにボールが渡り、ウイングは内側にボールを返した。
明治は2人、早稲田は5人。
飛び込んだらトライというシーンだった。
「ピー」
しかしその寸前に笛が鳴った。
レフリーは早稲田のウイングの放ったパスがスローフォワード(前にいる味方にパスをする反則)と判定した。
そしてノーサイドの笛が鳴った。
早稲田はスローフォワードではないと抗議した。
しかし覆るはずもなく早稲田の3連覇の夢は消えた。
(翌日の新聞にも同様の記事が出た。
その後このレフリーは辞めた。)

「惚れ込んだら苦しみも楽しみに変わる。惚れ込めないような者はラグビーをする資格なし。」

高田牧舎

高田牧舎

創業1905年。
早稲田大学の歴史と共に一世紀。
伝統の味を守り続ける、早稲田大学南門前の老舗洋食レストラン。
毎年、早明戦の後、早稲田大学は「高田牧舎(早稲田大学本部キャンパス南門真向かいにあるレストラン)」にOBと現役が集まって祝勝会か残念会をするのが恒例だった。
そこで、あるOBが演説した。
「今日の試合は敗れた
しかし内容は決して負けていない
お前らはようやった」
すると学生はみんなワーッと泣いた。
「その雰囲気に、僕は一流のラグビーというのはすばらしいものだとつくづく感じた。
このときが僕のラグビーというものとの本当の出会いでしょうね。
いつもバカみたいなこといってる友達どもが、ラグビーをほんとうに純粋にいろいろなことについて話し合っている。
泣いているやつもおる。
嘆いているやつもおる。
赤裸々な人間の集団。
そういう雰囲気は個人競技にはないですね。
やはり日本一を目指してみんなでチームをつくって狙っていくという、そういう連中にしかわからない1つの雰囲気に大変感動しました。
そのうえ試合に出た選手は、我々1年生のところまできて謝るんです。
申し訳なかった、だから来年はお前らが頑張ってやるんだぞと。
そういうことを日本一のプレーヤーが謝っていくわけです。
そういうのをあっちでもこっちでも泣きながらやっている。
およそ100名の部員の中でみんな競争してレギュラーになっていくから、レギュラー争いに勝って選手になったやつが、出られなかった部員のところまで手を握り合いながらいろいろしゃべっている。
そういう光景を見て、僕はなんてラグビーというものはすばらしいものだと、こう思ったのです。
そのときのそういう純粋感性がその後の僕を決定したような感じがします。
僕はそれから50年以上ラグビーに取り組んでいくという人生を決定してしまったのです。
純粋感性なんていうと大哲学者カントに対抗するようで恐悦至極だが、私は出会いにおける最も重要なものとは人間の最も敏感な生粋の感受性だと思っています。
最初に感ずる5感の混じりけのない直感的認識こそ出会いにおける感動の中心なのです。
文化、社会に貢献した人の多くは感動的な出会いの感激によってその一生の一歩を決定している。
こうした偉人たちだけがそうなのではなく、我々普通人もまた感動的な出会いによって一生の幸福や楽しさを見出している。
それを僕は「ほれ込む」と言っています。
今の若い人にも幾多の感動的な場面や行為が与えられているのに、何だかほれ込みが足りないように思える。
人は誰も名誉とか金銭的なものを獲得できるというときには大きな関心を持つけど、スポーツとか遊びとか、その中に何も打算がないようなものに人間は感動する。
そこに人間の価値があるのだという18世紀の純粋論みたいなものは今は残っていないのでしょうか。」
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「僕はこの出会い、ほれ込むということを大変重要視するんです。
幸いにも1つの集団-素晴らしいワセダラグビーの中でほんとに青春時代の純粋な感情、人間の純粋な感情が爆発した。
そのるつぼの中に僕は初めて入って、そこから人間の重要さ、勝利の歓喜、そういうことを感じ取れたことは大変幸福だったと思う。
僕はラグビーをして世界をあちこち歩いて、ニュージーランドやイングランドでもフランスでも、いろいろな国でラグビーが好きなやつが集まって、試合後には必ずミーティングをするのを見てきた。
そのミーティングをやったときに、純粋にラグビーを愛するものが集まるという、その雰囲気が世界中どこでもある。
つい30分ほど前まで激しくタックルし合い、時には取っ組み合いをした男たちがビール片手に語り合う。
そういうのを見るとラグビーが終わることを、「NoSide(ノーサイド)」というのは言い得て妙だと思う。
敵味方を超えて
「ナイスタックルだった」
「あのライン参加は読めていた」
とお互いのプレーを語り合うんだ。
年齢、職業、社会的地位の異なる者たちが1つの楕円球に夢中になっていることがよくわかる。
「OneForAll、AllForOne(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」などというと、キレイごとと思われるかも知れんが、ラグビーはその精神を持っているんです。
1試合で4つも5つもトライを決めるトライゲッターがいるかと思えば、フォワード第1列の3人などは80分で1度しかボールに触らないこともある。
実に地味なポジションで、密集戦では下敷きになって踏まれたり蹴られたり、おまけに1発パンチを食らったりすることもある。
でも痛い思いをして自分たちが奪い獲ったボールをバックスがトライしてくれた時、フォワードは喜びを感じることができるんだ。
フォワードが頑張ってくれないことには自分たちの仕事が成り立たないことをバックスも知っている。
そういう信頼関係がフィフティーンの中にないとラグビーは成り立たないんだ。
様々な個性を生かせるというのもラグビーの魅力の1つなんだ。
1チーム15人を並べると1人1人の体格はあまりに違うことに気づく。
この凸凹感はラグビー独特だ。
190cm100kgを超える大男もおるし、160cmあるかないかの小兵も珍しくない。
いかにも俊足そうな筋肉質もいれば、首も体もとても太く耳がつぶれたブロッブ一筋もいる。
野球やバレーではこうはならないだろう。
ラグビーはポジションによって仕事がかなり違うんだ。
言い換えればいろいろな特性を生かすポジションがあるということ。
そんなサイズが違う男たちが同じ色のジャージを着て闘う。
そしてNoSideになると、敵味方関係なくポジションの区別なく語り合い、またの機会の奮闘を誓い合う。
そういうラグビーならではの世界が地球上様々な場所にあるということを感じる。
それがラグビーの偉大さではないか。
そういうことをつくづく感じています。
なんとなく始めてしまったラグビーとの付き合いが、もう50年以上になりますが、ラグビーの持っている魅力に引き込まれたまま僕は歩んできたように思います。」

チームがマンネリに陥るということは、1人1人が考えてプレーしなくなることと裏腹

 (1756810)

着物姿で自転車の荷台に乗り田舎道を行く女性
1935(昭和10)年
昭和10年、大西鐡之祐が2年生になったとき、早稲田大学ラグビー部は15人、まったく非の打ち所のない選手がそろった。
主将の野上は160cm足らずながら、日本ラグビー史上3本指に入るであろうスタンドオフ。
ハーフ、山本、伊藤、野上。
スリークォーター、坂口、林、川越、原。
フルバック、鈴木。
この8人は日本一のバックスだった。
「通常はバックス7人、フォワード8人だが、この時の早稲田はこのシステムをとらなかった。
7人のフォワードはスクラムで押すのではなく、支えて速く球出しし、バックスに回し、バックスはオープン攻撃で球を散らし、フォワードは速いフォローで球を奪取し、ゆさぶってゆさぶって敵の防御網に穴をあけトライをとる。
それが早稲田のお家芸といわれる「ゆさぶり戦法」だったんだ。
7人のフォワードはセットプレーに弱いが、展開力があればスクラムで相手に球を獲られても密集戦を支配しバックスに球を供給することができる。
そういう自信に裏付けられていたんだ。
野上の最後の年だったし、すばらしい選手たちがゆさぶり攻撃に磨きをかけて勝てるという自信にあふれていた時期だった。
この年、部員も110名を超えて史上最多になった。
その中から力に応じてスコッド(戦闘小隊)が編成され猛練習に励んでいた。
この年ほど練習をやった年はなく、練習量においても技術的な水準においても1番レベルが高かった年ではないかと思う。
だからあの当時の2軍の連中は「1軍がもし日本一になったら俺たちは日本で2番だ」といった。
事実それくらいの精鋭がそろっていた。」
 (1756807)

この年の早明戦も劇的だった。
早稲田はここまで明治以外のチームにはほとんど全部失点0で勝っていた。
明治は2週間グラウンドに天幕を張って見張りを立て、誰にも見せないようにしてダブリンシステムというフォワードを7人にしてスリークォーターとフルバックの間にセブンエースを置いて攻撃するやり方を練習した。
早稲田に負けず元来8人フォワードの明治も戦術を模索していた。
試合終盤、13対13で同点の時、運命的なプレーがあった。
早稲田のバックスが蹴ったボールが両チームの真ん中に飛んだが、球は早稲田側に転がらず、明治のウイングのところへ転がり、明治はこれをトライに継げた。
早稲田は最後、明治に負けた。
「もしボールが早稲田の方に転がっていたらと今でも思うことがある。
ラグビーというのはどんなに技術的な練習をやり、心技体に抜きん出た力を持っていて、絶対そのときに勝てるというようなチームでも運に見放されると負けるということをつくづく感じた。
気の毒に監督をしていた兄が禅好きだったものだから、試合が終わってしばらくしてからみんなは禅寺にいって3日間座禅を組んだ。
監督も考えたのだろう。
何が足りなかったか。
練習も日本一きつくやった。
技術も磨いた。
それでもだめだったということはどこか精神的に何か欠陥があったのだろう。
その精神を鍛えようではないかということだったのだと思う。
それで野方のお寺で3日座禅を組んだ。
ラグビーはスキルという技能、直接経験的な技能が重要とされるが、早稲田はゆさぶりという昭和7、8年に優勝したときに確立した1つの戦法が決まっていたから、それに基づくスキルをやっていくということで、スキルばかりやっていた。
そのとき疑問に思ったのは、ラグビーの戦法としてゆさぶり戦法というのをやるなら、なぜゆさぶりを早稲田がやるのだということをもっと部員全員に徹底して教えるべきではなかったか。
早稲田はゆさぶりをやるのだ。
それで勝ってきたのだということをみんな知っているけど、部員全員がゆさぶりというのはどういう理論に基づいてどういうふうにやるのかは、慣習的にサーッと練習で覚えているだけで、しっかりした理論をまだ持っていなかった。
それがあの年に技術も練習も非常に積んだけれど負けた1つの原因ではないか。
もっと部全体に選手全員にゆさぶり理論を徹底していけば勝てたのではないかという感じがする。
だから僕が監督になってからはその点を大変変えた。
ラグビー部のように伝統が長いと、伝統という1つのベルトコンベアに流れているのと同じで、その上でずっとやっているとやることが似てくる。
そしてマンネリ化に陥ってしまう。
それで勝っているとそのやり方にやっていても勝てるじゃないかということになり、なぜこれをやるのかということを忘れてしまう。
勝ち続けるとなんだかこうやっていれば勝てるのだということに慣れてしまって、後は研究しないで、そしてマンネリ化に陥って負けていく。
そうなっていたのではないかという気がします。
チームがマンネリに陥るということは、1人1人が考えてプレーしなくなることと裏腹なのです。」
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