大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。
2017年3月28日 更新

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」

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「東伏見のグラウンドへ戦後初めて行った時、グラウンドではカマキリみたいなやつが20人ほど集まってラグビーをやってた。
感激した。
実際、まさか練習なんかやっていないと思って行ったのです。
戦後の皆が食うか食わずのときです。
部員たちも地方から出てきて寮みたいなところへ泊まりながら、毎日よその畑へ芋を取りにいって芋で食いつないでいるというようなことをやっていたのだから、ようやっておったと思う。
だいたいすいとんというおもゆみたいな中に3粒ほど小麦粉の団子が入っているものをよく食べた。
その入っている団子が1つ多いというので東伏見にも食堂があるのに、わざわざ東伏見から下落合まで電車で食いに行くという時代です。
そのへんの芋畑なんかをみんなあさって芋ドロボウなんかしたものだからラグビー部のやつは嫌われていたんですよ。
その頃は兵隊から帰ってきて大学に復学したものもいる。
そいつらがラグビー部に帰ってきたら、ラグビー部にいたほかのやつは腹ペコばかりで、そんなやつよりもずっと動きがよかった。
復員してきては選手になって試合に出た。
だから昭和21年の試合を見ると、シーズン初めの10月はまだ東大に負けたりしている。
しかし12月には明治に勝っている。
兵隊帰りが集まってきてメンバーが出来上がり、それで強くなったということでしょう。
そういう兵隊帰りというのは学生とは年も違ったからね。
帰ってはきたものの靴も何もない。
だからわらじをはいて試合したものです。
俺、足痛いからわらじはいてやるといって、それでも勝ったものです。」
国立霞ヶ丘競技場

国立霞ヶ丘競技場

昭和22年、
戦前、関東のラグビーの試合は明治神宮競技場を専用グランドに近い格好で使用していたが
戦後、アメリカ軍に明治神宮競技場は接収されて「ナイルキニックスタジアム」と名を変え、日本人は自由に使うことができなくなった。
そのためラグビーの試合は神宮球場や後楽園球場(現東京ドーム)で行わざるをえなかっくなった。
そんな状況から関東ラグビー協会は女子学習院の焼け跡でアメリカ軍の駐車場になっていた土地に新しいラグビー場を建築することを決めた。
これが「東京ラグビー場」、後の「秩父宮ラグビー場」である。
建設資金にはラグビーOBの浄財も含まれた。
彼らはある者は時計やカメラ、ある者は家のじゅうたんを売って自分たちの心のふるさとを築き上げようとという情熱に燃えた。
工事が始まったある日、雨のふるなかゴム長ぐつの秩父宮殿下が来て、工事関係者に
「ラグビー協会は貧乏だからよ ろしくたのむ」
と頭を下げたという。
昭和22年11月、
東京ラグビー場(秩父宮ラグビー場)が完成した。

早稲田大学ラグビー部監督となる

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昭和25年、大西鐡之祐は、正式に早稲田大学ラグビー部の監督になった。
(そしてこの年、全国優勝した。)
「監督として適任であるかどうか。
まだ自信はなかった。
すくなくてもはじめの2年くらいは自信なかった。
その後2年間くらいの研究と経験がある程度、僕を監督らしくしていったのではないか。」
終戦後は、とにかくモノがなく、逆にいうとモノがあれば何でも売れる時代だった。
だから農家や商人は強かった。
なにもモノをもっていないラグビー部の食料の調達は大変だった。
進駐軍のタバコやチョコレートを持って、千葉の農家に行って米俵と交換した。
帰りは、警察官に見つからないようにしなければならなかった。
革製品は統制がかかっていたので、ボールや靴は配給だった。
ジャージもなかったので、みんなシャツを着た。
ゴールポストは、がんばって集めた金でつくったものの、翌日には盗まれていた。
「1番困ったのは飯だよ。
食わず飯がない。
マネージャーは米びつの上に寝ていた。
そうしないと部員にかっぱわれてしまう。
みんな持って行って炊いて食うのです。
米を買ってきて中に入れてはその上に座って番をする。
そんな時代だった。
夏合宿も食糧事情で選んだ。
あちこちの先輩に頼んで米の手に入る場所に行ったものです。」
大西はラグビーについてわからないことは、素直に早稲田の先輩にその答えを求めた。
監督経験者から各ポジションのスペシャリストまで、それぞれの分野の専門家を訪ねた。
そして自分のものにしていった。
「新人のときから僕はいろいろなポジションをやって、ある程度は知っていたけれど、本当に専門といえばフランカーです。
そのことについては誰にも負けないだけのものを持っているけれど、ほかのポジションはわからない。
一般的なことはわかっていても、ほんとに第一線で専門的にやっていることはわからない。
うちのOBのなかでも、例えばセンターなら川越藤一だというように、誰が見てもこいつの言うことしかないという人がいる。
そういう人が全国にいるということは非常に幸運だった。
それが伝統のあるクラブの有利なところでしょう。
最初の2年はOBの方とか一緒にプレーした仲間から聞いて、そのほかに実際に監督として選手との接触もあった。
アドバイスを聞いても本当かどうかテストする場を持っていたということ。
それが非常によかった。
部員と一緒に研究し実験してはじめて、これは正しい、これはいいという検証ができるのです。
実証されたものでない限りいくら立派なものでも、そんなものは空理空論です。
頭ではいくらでも考えられる。
しかしそれがほんとうにできるかどうかということはテストしないとわからない。
そのテストの場を僕は持っていた。
そしてそれを試しながら勝っていったということが非常に大きな自信を持たせた。
25年と27年と28年に勝って、26年と29年は負けたけど、5年やっているうちの3回は全国で優勝している。
1つ1つ新しい戦法をやらせて、そしてこれは正しい、いい、これはいけるというものを実証していった結果です。」
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「例えば、スクラムの組み方で、従来の3・2・3に対して、3・4・1というフォワードシステムがある。
まず3・2・3と3・4・1がどう違うということを、両方で組ませて学生にやらせて、3・2・3より3・4・1のほうがいいという判定をする。
そして次に3・2・3のチームと試合して、それをやっつけて、これはいけるという結論を出す。
なぜ3・4・1のほうがいいかを簡単にいうと、3・2・3は押す力が最も集まるのはフッカーだが、3・4・1は左右のプロップに押す力が加わる。
スクラムはフロントロー3人の面の押し合いだから、押す力の指向性が、1重点であるより2重点であるほうがよい。
さらに3・2・3の場合、フッカーはフッキングすることが役目だから、後ろから押しが集中すると足が出しにくくなる。
またフランカーとナンバー8がバインディングしているので、スクラムから球が出た後、ブレークしてフォローに参加するのが遅れる。
それらの理由があったのです。
新しい理論を導入する時にも1つ1つの実証があったのです。
それが僕の大きな自信となったということです。
ただ新しい理論や戦法も学生がやりましょうといわんかったらできんからね。
学生も大変進歩的だったと思う。
その点で早稲田のラグビーは進歩的なのです。
たいていのチームでは新しいことはなかなかやりませんよ。
そんなものやらんでも今まで通りでいいじゃないですか。
だいたいそうなる。」
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大西鐡之祐はシーズンが始まるとき、その年の1番強いチームはどこかを考え、そのチームを目標にする。
そして設定した目標の戦力診断をする。
戦力を分析したらそれに基づいて勝つためにどうやっていくかを考える。
「監督の仕事の第1歩は、シーズン当初において自らのチームを診断することです。
チームの現状の詳細な把握なくして何の方針も立てることはできないからです。
まずラグビー技術の程度と理解度とセンス、チームの士気とフィットネス、そしてそのチームが持っている歴史と組織などはその主要な調査項目です。
そのシーズンのチーム主力プレーヤーの技術程度を綿密に分析して、自分たちが実験した戦法の中からこのチームに最も適したものを選び出し、このシーズンのこのチームの戦法を決定する。
戦法の完遂と成功は各ポジションのプレーヤーの戦法遂行に適応した個人技の完成にかかっている。
したがって各ポジションごとに最も必要な個人技術を重要度に基づいて列記し、その完成期間を予測します。
次いで、戦法に基づくユニットプレー(フォワード、バックスの集団技術)の完成期間を予測し、戦法完成のチームプレーの完成期間も予測します。
シーズン中の最重要試合を決定し、それまでの練習期間をなすべく正確な練習時間に換算して、予測した個人、ユニット、チームの練習期間と照合して正確な練習期間を決定します。
いかに立派な監督でも時間がなければチームは完成できません。
こうして練習指導計画が全シーズン、春季、夏季、秋季を分けて作成され、それがまた月間、週間、1日単位の計画に細分化されて綿密に立てられ実施される。
しかもそれが何日かおきかのゲームによってテストされ、練習目標が達成されているかどうか反省、吟味され、新しく再組織されて実施されていく。
秋季ともなれば毎週他チームとの試合が行われ、1つ1つが最重要試合へのテストゲームとして戦法完遂へのステップとなる。
その間、常に最重要ゲームの相手チームの状況に最大の注意を払い、その作戦の変化には充分対応できるように対処する。
最重要試合の1ヶ月くらい前になれば、そのシーズンのレギュラーメンバーが決定され、約22、3名が選ばれて合宿に入る。
といったやり方がチームのコンディションを整えるのに好都合のように思います。
これが戦法完成へのチーム練習の仕上げです。
この間、監督はキャプテンの訓育に特に留意しなければなりません。
この間における対外試合については、とくに作戦を与え、そのイメージトレーニングを繰り返し、キャプテンの統率の下にチームだけで試合ができるように指導する指導する必要があります。
最後の1週間はそのシーズンの戦法は完成し、その上に何か新しい作戦をやる企図があるならその完成に努めるべきです。
新しい作戦は大試合の勝負を左右することがあるから慎重を期さなければなりません。
こうしてシーズン当初から考察して戦法がチーム全員に浸透し、懸命な練習によって最重要の試合に主導権をとって闘い、イメージどおり相手を翻弄し勝利を収めたとき、監督としてはラグビーの醍醐味の極致にあるということができます。
プレーヤーは確かに勝敗も大事ですが、ゲームに集中し無心に無欲に自由の中に闘います。
しかし監督は最後まで自分の戦法を信じて信じて断じて勝つの信念を持ち続けなければ、試合に負けるように思えてなりません。
もうこれでやるだけのことはやった。
あとは神に任せようと思ったとき、そこに逆転負けが潜んでいるのです。
ここがプレーヤーと監督の違うところのように思えるのです。」
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「相手チームと自分チームを診断をして、それに基づきどういう作戦、どういう戦法で行くかを決める。
次に各ポジション候補を2人ずつくらい考え、1ポジションごとにその戦法を達成するための技術、例えば、スクラムハーフはどういう技術をやる、スタンドオフはどういう技術をやると技術を賦与する。
技術を賦与した者に、できれば1人ずつにコーチをつけて、まずはこれ、その次はこれと順番をつけてやらせていく。
その練習計画をずうっとつくっていくと、ラグビーは15ポジションですが、同じポジションが左右あるのでコーチが8人くらいいればやれます。
そのように分担して各ポジションの技術練習計画を立てていく。
この技術は何日くらい、この技術は何日くらい練習させたらいいかということで練習計画を立てる。
ただ計画を立てただけでは不十分なので、その終わりにどれくらいできたかという到達度テストをどのようにやるかというテストの計画もちゃんと立てて、それを各コーチに渡してやる。
それで今度は戦法練習。
要するに1番初めに大綱を決めた戦法のやり方をテストするときに、全部チームとしてまとめて、その戦法と各ポジションに当たる技術とかがマッチしているかどうか、それがどう進んでいるかを見ていくわけだ。
春のシーズンがそれに充てられる。
春の練習はだいたいある戦法を決めて、その戦法に基づいた各ポジションのやり方をある到達水準まで上げるということが目標になる。
もっとも走りこみやウエイトトレーニングなどで個人の体力やパワーを向上させることも春先から目標を決めてしっかり取り組んでいかなければいけません。
これを怠るとどんな理論や戦法も無意味になってしまいます。」
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春は各ポジションごとの練習をやって、夏合宿ではチームとしてどういうことに重点を置くか、どこに攻撃の重点を置くかということをやっていって、チーム全体の志向を磨いていく。
ラグビーは自分のチームの強みを敵の弱点にぶつけていく。
チーム全体の力を敵の弱点に集中できるような攻撃方法、サインプレーを決め徹底的にやっていく
攻撃は一次攻撃だけでなく二次、三次と連続攻撃をやっていく。
さらに防御も大事である。
いかに攻撃的なディフェンスからチャンスをつくるか。
その練習をする。
また体力の限界まで走りこみトレーニングしてパワーアップする。
夏合宿を終えて9月に入ると毎週のように試合がある。
走りこみやウエイトトレーニングの量が減り、実際に試合をやって出てきた課題を修正することに練習の主が置かれる。
「チーム全体で自分たちの戦法を確認していく。
コンビネーションプレーというのも何となくやっているというのではまずいんです。
例えば、敵陣深く入ったところでのスクラムで攻撃ラインを引く場合とか、自陣25mでのラインアウトからの攻撃、あるいはペナルティからのサインプレーというように、さまざまな状況を設定して目的意識的に練習することが必要なんだ。
あえてタックルに行かずに相手が内に切り込んできたら誰と誰が止めるのか。
スクラムをホイールされたらどうするか。
あらゆる場面を設定しながらチームとしてディフェンスに磨きをかけるわけだ。
こういう実践的な練習を集中的にやる。
時には試合と試合の間に練習ゲームをやって動きを点検してみたりする。
そして1週間そういうことをやっていって2日前に作戦会議をやって、そこでは今まで通り
攻撃はいくんだ、防御はこういくのだ、ゴール前の攻め手はこれとこれとこれと最終的な会議をやる。
それでもう1日あるからその1日でそれをうまいこと理解しているかどうかということを確認して、それであがりです。
だいたい1週間くらいは具体的な戦法をずうっと練習でやってくるわけです。
だから試合当日になって、まだサインプレーについて指導をしなければいけないということになったら負けですね。
それまでにちゃんとやってなければ、前の日までに全部言って、その日はグラウンドに出てしまったら奴らに任すという状況のほうがうまいこといく。
そのときカッカしていたらダメです。
そのくらいの余裕はないとね。
そのくらいの信頼感をキャプテン、ゲームリーダーに持ってなければね。」

国際試合(International Game)

ダド・マリノ vs 白井義男

昭和27年5月19日、後楽園球場に集まった4万5000人が見守る中、白井義男がダド・マリノとの死闘の末、ボクシング世界フライ級チャンピオンとなった。
日本人初の世界チャンピオンだった。
同年9月、イギリスの強豪オックスフォード大学が来日。
大西鐡之祐は、これをAll早稲田を率いて迎え撃った。
早稲田大学ラグビー部は、昭和2年にオーストラリアに遠征し、それ以来5年間研究を重ねゆさぶり戦法を編み出した。
大西は戦後、それを4年かかって復活させた。
「ALL早稲田の監督なった僕は、夏合宿にOBの有力選手を補充し、チームプレー練習に専念した。
幸い、早稲田は過去5年でゆさぶり戦法復活に全力をあげ、全国優勝もして充実していたし最高潮にあった。
僕はこの素晴らしい早稲田のゆさぶり戦法が本場のラグビーに通用するか試してみたいと考えたのです。」
早稲田戦の前に行われた慶応vsオックスフォードは6対28。
オックスフォード大学は、国際クラスの選手である両センターに中心に深いラインをしいて、横に流れるような動きをしながら、パスを受けるときは体勢を立て直し加速し直進しパスを受け取る。
防御する側にとってタックルするポイントがつかみにくく、体格に恵まれたバックスが加速して走っていくと1発のタックルでは止められなかった。
「しかし対面のプレーヤーを追って、タックルポイントをつかみ、忠実にバッキングアップすれば恐るるに足りないと僕は思った。
攻撃も接近戦でいけば抜ける自信をもった。
作戦会議でこれを指示し、あとはゆさぶりで走りまわり相手の疲労をつくことを命じた。」
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昭和27年9月17日、東京・秩父宮。
ALL早稲田は、全日本クラスの堀、橋本、横岩のOBをリーダー格として補充し、現役中心のメンバーで布陣した。
オックスフォードは、攻守に深いラインを敷く重く分厚い陣形。
早稲田は、シャローディフェンス(浅いディフェンス)で速い攻撃重視の陣形。
また大西鐡之祐は、チャンスの判断、ゆさぶり、タックルの徹底を強調した。
試合開始早々、オックスフォードのスリークォーター:ブーブバイヤーが深いラインからあっさり抜いていってトライ、ゴール。
続くペナルティゴールも決め8対0。
しかし早稲田はひるむことなく一丸となって健闘した。
前半終了前、右のスクラムから左へ展開、堀が絶好のロングパスを小山に送り、完全にオックスフォードのラインの後ろへ抜けて青木がノーマークでトライ。
8対5で前半を終えた。
後半、早稲田は善戦し、負けていたスクラムはホイールで活路を見出し、ラインアウトで多様な方法でボールを獲り、ラックでは5分にわたりあい、フォワードはパスとドリブルでオックスフォードをかく乱し、バックスは鉄壁の浅い防御陣でタックルを決めて互角に戦った。
22分、早稲田はペナルティを決め8対8の同点にした。
引き分けかと思われたノーサイド直前、早稲田ゴール前15mからのタッチキックがタッチにならず、それを受けたオックスフォードのフルバック:マーシャルが見事なドロップゴールを決めて、オックスフォードが11対8で勝った。
早稲田にとってはあきれめきれない悪夢のような幕切れだった。
試合終了後、「ほたるの光」が流れるなか、両軍はグラウンド中央に集い健闘を称え合った。
オックスフォードはこの後、日本代表と対戦し、0対52という圧倒的な強さを見せつけて帰国した。
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