大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。
2017年3月28日 更新

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」

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昭和11年、扇風機と原節子さん

昭和11年、扇風機と原節子さん

昭和11年、大西は2軍に上がった。
インゴール組から。試合に出られるか出られないかというところまで上がってきた。
1軍選手がケガでもすれば試合に出られる。
大西の同ポジションの1軍は、主将の米華真四郎だった。
大西を米華から学び、米華を目標に努力した。
100mを走れば大西のほうがはるかに速かった。
持久走でも負けなかった。
しかしゲームで米華は、攻撃では味方のを必ずフォローし、ディフェンスでも忠実にバッキングアップしていた。
地味な役割をがんばれってやれる男だった。
昭和9、10年と早稲田は負けていた。
そこで米華は監督を廃止し、あくまで学生自身の力でやっていくことをした。
ただし技術的なサポートのためにコーチを1人置いた。
またさらに今までの敵に点を獲らせないゲームのやり方から
「獲られてもいいからもっと積極的にいこう。
獲られたら獲っていけばいい。
それが俺たちの行き方だ。」
と宣言した。
「練習をしっかりしなければならないのは当然だが、練習に対する心構えと態度を考えてみると、自ら進んでそれを真剣にやっているチームこそ本当の強さを獲得していくのだと思う。
だから練習は僧侶の修行と同じことだと思うのです。」
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夏合宿で大西は練習を2倍やらされた。
練習は午前と午後。
1軍は午前は軽くして午後はきつくする。
2軍は午前きつくして午後は軽くする。
大西を含む1軍に上がるかどうかの選手は、午前は2軍できつくやって、午後は1軍に入ってまたきついのをやる。
これが2週間続く。
大西はだんだん食が細くなり怪我の数が増えていった。
しかしここで弱音を吐けば1軍どころか3軍に落とされる。
ここで耐えなければ1軍にはなれないという1つの試練だった。
「1軍になるまで3、4年、2軍以下で下積みをする。
1軍と試合をすると1軍は強いから攻める。
下積みチームは守る。
下積み側はいかに相手を止めることを学ぶわけだ。
だからディフェンスが弱いチームは速く1軍になれるチームだ。
1軍はしょっちゅう攻撃はやっているけれどディフェンスはしない。
防御に回ることが少ない。
だからそれだけ苦労していない。
僕らは1軍の強いやつが攻めてくるのをどのように止めてやろうかと、そればかり考えた
タックルというと突っ込んで相手を倒せばいいと思われがちだが、それでは棒倒しになってしまう。
タックスポイントをつかむということが大切になってくる。
相手との間合いをはかって膝から大腿辺りめがけて踏み込んで気合もろとも1発で倒す。
相手を倒してもパスをつながれたら無意味だから、とにかく1発で倒す。
そしてディフェンスで大事なことはチームディフェンスでなくてはならないということ。
フランカーはディフェンスの責任が重い。
とりわけ敵バックスが内側に入ってきた時は必ず止めなければならない。
僕はそれを一生懸命やって覚えた。
その結果2軍から1軍に上がったときはディフェンスの強いチームが出来上がる。」
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昭和12年1月6日の新聞記事。
名古屋城の金鯱のうろこ110枚のうち58枚が剥ぎ取られているのを発見。
同月27日、犯人を逮捕。
昭和12年、大西鐡之祐は早稲田大学ラグビー部のレギュラーになった。
初めての試合は一橋大学との試合だった。
観客は部員が50人くらいだった。
おそらく楽勝の試合だったが、大西ははじめて赤黒のジャージを着てアガッてしまった。
無我夢中だったため、試合後、思い出そうとしても、何をしたか思い出せなかった。
早稲田はセンターの川越藤一主将のもと、春の練習試合から連戦連勝し、全国大会でも優勝した。
「なるまではなれたらいいと思っていたけど、1軍になって1番いい思いができるのは1軍になった1年くらい。
要するに責任のない地位にいる1軍は1番楽なんだ。
楽というか面白い。
というのは、早稲田は明治、慶応以外には負けないのでどこへいっても勝ってばかりいる。
一気に攻められるし、それは面白い。
ラグビーとはこんなに楽しいものかと思った。
どこへ行っても負けないし、どこへ行っても思うようにプレーできるし、たまに失敗しても怒る人はいない。
そういう中で大いにエンジョイした。」

Waseda Univ. Rugby Football Club

「ラグビーの本当の楽しさやおもろさを満喫したいなら、伝統があり誇り高い優秀なクラブにはいることです・
こうしたクラブは理想をもち現実の集団をそれに近づけようとする強烈な熱情を持っている。
そうしたクラブでプレーすることによってこそラグビーの醍醐味を感じられると思うのです。
こうしたクラブに入ったプレーヤーは、そのクラブの代表選手を目指して研鑽を積むことになる。
技術の追求は科学的体力養成理論的技術の学習に専念することから始まります。
理論をしっかり学ぶことは技術の上達に欠かせません。
技術が上達していけばゲームをやるごとにラグビーの面白さを満喫できるでしょう。
自分が考え研究した技術理論が自分のプレーを改善させていくことになります。
最初はできなかったプレーが熟練的技術として身についていく楽しさもさることながら、それがゲームにおいて有効に立証されたときのうれしさと満足は他に例えようもありません。
苦しい練習を自分で合理的に積み重ねた者のみが味わえる理論的醍醐味ともいえるでしょう。
プレーヤーの中にはこうした理論的熟練的技術で相手を抜いて、また合理的戦法を駆使して勝利を追及することをラグビーの醍醐味だという人もいます。
しかしそれだけでは本当の勝利は掴めないのです。
ラグビーは15名でチームをつくり闘います。
優秀なチームをつくるためには50名のメンバーを持たねばならない。
これらの人間関係およびクラブメンバーのチームワークをいかにつくり上げるか。
共通の精神とロイヤリティー、愛情と信頼を持ったラグビーが好きだといって集まった仲間の純粋な感性に訴えて、いかにして闘志あふれチームを強くしていくことに熱意のあるチームにするかは、そこに集まったプレーヤーの共同生活にかかっている。
プレーヤーとして最高の技術と誇り高い勇気と闘志をもち、選ばれてクラブの代表として試合に出る栄誉を担うようになったとき、それはラグビーの醍醐味を味わえる絶好の舞台でしょう。
相手が決まって、作戦が確立し、作戦に基づくチームプレーと分担するポジションプレーの練習に精進し、準備万端整えて実力伯仲の一戦に出場するとき、すでにゲームの目的である勝負への意識は、ただゲームに集中することのみを自己目的とした自由の行動となり、そのとき初めてそれまでに修得した熟練的技術が自由自在に働いて試合に熱中できるのです。
それらはあたかも試合前日の作戦的イメージに順応するように、自然に自由に、チャンスと見れば突進し、ピンチと見れば守り、追いつ追われつ展開して、そして最後にノーサイドの笛が鳴り響く。
ああ、終わったか。
やった!
すばらしいゲームだった。
相手と握手を交わす。
サンキュー。
感謝と感激。
こんなゲームこそプレーヤーにとって最高のラグビーの醍醐味といえるでしょう。」
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昭和13年4月29日、中国大陸へ出征する兵士満載の列車を見送る人々
昭和13年、大西は最上級生になった。
ラストシーズンである。
おまけに早稲田は昭和11、12年と連覇し、この年は3連覇がかかっていた。
明治は夏合宿で主将が頭蓋骨骨折で死亡し、早稲田も試合当日に高田総長が亡くなり、両チームとも喪章をつけてプレーした。
明治はフォワード8人システムで真正面からフォワード戦を挑んだ。
早稲田は明治の圧倒的に強いフォワードに押しまくられて27対6の大差で敗れた。
「11、12年と連覇してずうっと勝っていたから、今まで通りやっていれば勝てると思って、新しい創造というものがなくなった。
それが1番の敗因でしょうね。
もっと新しいものをつくり上げてみんなでやっていくのだ。
そういう気迫が無かったということでしょう。
2年優勝して3年目でボーっとしていて、まあゆさぶりをやっていれば勝てるだろうという安易さがあったから負けてしまった。」

第二次世界大戦

真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)

昭和14年、大西は早稲田を卒業し東芝へ就職した。
この年、ドイツがポーランドに侵攻し」、このことが第二次世界大戦と発展していく。
この年(14年)と15年、明治大学ラグビー部は早稲田大学ラグビー部を圧勝し、早稲田は3連敗となった。
昭和15年1月10日、大西鐡之祐は現役兵として神宮の近衛歩兵第4連隊第11中隊に入隊した。
あるとき軍装で駆け足行軍が命じられ、習志野の演習場から神宮の兵舎まで全装備で走らされた。
大西は初年兵で一緒に2年兵もたくさん走っていた。
大西は日頃いびられていた2年兵に負けてなるものかと走った。
次々に落後していき完走は4人だけだった。
褒章として外泊1日を許可された。
近衛歩兵第4連隊第11中隊は神宮球場付近に駐屯していた。
すぐそばにプレーした神宮競技場もあった。
大西は無性に競技場が見たくなり、就床後、見回りの目を盗んで兵舎の4階に上がり、競技場の時計台を見ながら泣いたこともあった。
昭和16年、早稲田大学ラグビー部は、何とか4連敗を免れようと、再び大西栄蔵(大西の兄)を監督に起用した。
そして明治に圧勝した。
この試合の翌日、日本が真珠湾を攻撃。
太平洋戦争が始まった。
日本はドイツ・イタリアと3国同盟を結び連合国と対峙した。
昭和17年、日本の国全体が戦争にまっしぐらに進んでいく中、多くのスポーツが統制されていった。
ラグビーは「闘球」と名称を変えながらも、かなり後まで続けられた。
しかしこの年の卒業生は6ヶ月繰り上げて卒業となり、シーズンも前後2期に分けられた。
ラグビー部も多くの部員が軍隊に入っていった。
「同時代の若者と同じように、僕の人生観は戦争で変えられた。
僕の場合、ラグビーをやっておったということ、1人のラガーマンとして青春を燃焼したことは、戦地に行っても僕について回った。
ラグビーで体を鍛えて丈夫だったから生き延びられたと思う。
でもなまじ体が強かったのが悪かったのかずいぶん運命に翻弄された。
教育教官として中隊に残る予定だったのに、体力があるために野戦向きということになってしまった。
その結果、結婚を約束していた婚約者に6年待ってもらうことになってしまった。
仏印(ベトナム)、タイ、マレーシア、シンガポールと各国を転戦した。
タイ、マレーシアの国境を過ぎた後、ポートディクソンという英軍の下士官養成学校のあったところに上陸したことがあった。
そこで思いがけず立派なグラウンドに出くわした。
白いゴールポストが立っていた。
思わず直立不動の姿勢で敬礼してしまった。
戦争に敗れたとき僕はスマトラにいました。
従軍慰安婦の女性たちが、大切にしてきた軍票紙幣が無駄になってしまった時に怒りを爆発させたことを思い出します。
従軍慰安婦という存在が国家によって認められていたことだけでなく、戦争とは人間を集団的に狂気に追い込むものであるということを、数十回の戦闘を通して身をもって僕は体験した。
戦争とラグビーが表面的には似ている面を持ちながらも決定的に違うことは、戦争は人間を人間でなくしてしまう。
殺す殺されるの世界だ。
それに対してラグビーは、闘争を人間の理性的な統制によってゲームに転化する。
理屈でなくその2つの違いがいかに大きいかを僕は体験した。
また植民地で過ごした体験から、1つの民族にとって教育がどんなに重要であるかを僕は痛感した。」
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昭和20年8月15日、敗戦当時、大西はシンガポールで捕虜だった。
「戦争が終わってもすぐに日本に帰れるなどとは思っていなかった。
スマトラ占領以来警備隊長をしていたから、いよいよ年貢の納め時かなという気持ちもあった。
だが僕は日本に帰ってまたラグビーにかかわれるようになったのも、ある意味、ラグビーのおかげかもしれない。
戦犯調査を担当する英軍の少佐に呼び出され、僕が所属していた部隊の部隊長について尋問された。
「お前の部隊長はオランダ人の女を囲い虐待していたのではないか?」という。
居場所を含めて知っていることをいえというわけだ。
偽証したら絞首刑になるブラックキャンプ行きだという。
しかし僕は知らないと言い張りました。
最後の日、ブラックキャンプ行きになれば切腹することも覚悟して僕は正装して行った。
正装したときの常で早明戦で2連勝したことを記念するラグビーボールのメダルを腰につけた。
少佐はそのメダルを眼にすると「お前はラガーマンか?」といった。
少佐も軍隊でラグビーをやっていたといって、ひとしきりラグビー談義に花が咲いてしまった。
最後にラグビー談義が終わった後で「お前の言うことを信用する」といってくれた。」
この戦争で、25名の早稲田ラグビー部員(OBを含む)が戦死、その中にミンダナオ島ダバオで戦死した大西栄蔵(大西の兄)も含まれいる。
大西栄蔵は
「兵法常住之身、常信兵法之身」
を信条に、
「トイレのスリッパを脱ぐときも、後から入る人がはきやすいようにそろえて脱げ。
それはパスを受けやすいように投げる心に通じる。」
といい、ラグビーにひたむきで厳しい人間だった。

戦争体験から、教育者を目指す。

終戦直後の呉 

昭和21年6月、大西は広島の呉に帰ってきた。
そして元いた東芝に戻った。
「戦争から帰ってきて学校の先生になってやろうと思い小学校へ行った。
そしたら免許がないからだめだという。
代用教員なら何とかなるかもしれないとかいうから、何をぬかすかっと今度は中学校へ行った。
僕が出た中学校へ行って話をしたらそれもだめなのです。
日本の教育制度は本当におかしいと思った。
それでしょうがなく戦争に行く前に勤めていた会社に帰って会社員をしていた。
それでも教育というものに僕は興味を持つというか関心を持っていた。」
その頃、早稲田大学ラグビー部も復興していた。
しかし部員は少なく試合をするにはOBが出なければならないような状態だった。
大西が母校のラグビー部の惨状を聞き、どうしようかと悩んでいると理工学研究所からお声がかかった。
「内緒だけどラグビーを思う存分やっていいから」
ということだった。
こうして大西は東芝を辞めて早稲大学の非常勤教師となった。
「教育の場への念願を果たした私は猛烈に勉強を始めた。
アメリカが持っている教育哲学、ジョン・デューイに代表されるプラグマティズム(20世紀に米国にて生まれた実験的合理主義、米哲学者:パースが初めにプラグマティズムという用語を創始し、ジェームズがこれを確立、そしてジョン・デューイが『民主主義と教育』を発表し大成させた)とはいかなるものか。
と同時にラグビーを通じて英国における有名なパブリック・スクール(長きにわたる伝統の中で洗練されてきた教育方法を持ち、スポーツからはフェアプレイの精神を、寮生活からは心と体を鍛え、責任感やリーダーシップなどを身につけることを目的とし、昔のパブリックスクールの生活は過酷かつ質素なもので、精神と肉体の鍛錬に重点を置いた「スパルタ式教育」を取り入れ、上級生の下級生使役(いじめ)が制度としてあったといわれ、自由を奪うことで学生に自由の意義と規律の必要性を理解させることが目的だった)の教育とはいかなるものかと。」

秩父宮ラグビー場

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