「根拠のない自信」「打ち込める何かが欲しい」
そのような葛藤は、誰もが一度は経験することのような気がします。
そのような葛藤は、誰もが一度は経験することのような気がします。
「そして大学も面白くなくて、意味ないなと思って辞めたんです。99年の3月で大学を辞めて、で、その年の7月21日、テレビでNHKのスタジオパークからこんにちはっていうね、昼にやってたトーク番組で、大場さんっていう人をたまたま見たんです。」
大場 満郎(1953年1月10日 - )は、日本の冒険家である。山形県最上町出身。山形県立農業経営研究所卒。「アースアカデミー・大場満郎冒険学校」主宰。
北極でも砂漠でも宇宙でもよかった、エネルギーをぶつけたかった
「大場さんの生き方。エネルギー、熱量が凄くて、もう番組を食い入るように見ちゃって。そしたら、番組の中で一番最後で、来年まったく素人の若者を連れて一緒に北極を何百キロもソリで歩こうと思ってるんですよってしゃべってるわけです。で、大場さんに手紙を書いたんですね。テレビ見ました、何にもやったことないんですけど行けるんでしょうかってね。それがきっかけで実際参加することになって、2000年に北極に行ったんですね。」
「だから、北極に行きたいと思って行ったわけじゃないんです。たまたま北極だったんです。別にどこでもよかったんです。別にそれが砂漠だろうがジャングルだろうが、北極だろうが、海だろうが、なんだろうが、宇宙だろうが、なんでも良かったんです。ただ、何かを探していたんだけれども、その時に色々タイミングがまたパシッと合ったんですね。」
「だから、北極に行きたいと思って行ったわけじゃないんです。たまたま北極だったんです。別にどこでもよかったんです。別にそれが砂漠だろうがジャングルだろうが、北極だろうが、海だろうが、なんだろうが、宇宙だろうが、なんでも良かったんです。ただ、何かを探していたんだけれども、その時に色々タイミングがまたパシッと合ったんですね。」
極地へ向かうのはあくまでも手段
有り余るエネルギー、何かを為したくて為せていない自身への怒り。
若き日の荻田さんを突き動かしたのはそんな気持ちだったといいます。
「どこでもよかったんです」という荻田さんの言葉。
自身のエネルギーを一方向に定める手段が極地への冒険であり、それを続けるうちに「もっと行けるはず、もっとやれるはず」を繰り返してきたのだと。
若き日の荻田さんを突き動かしたのはそんな気持ちだったといいます。
「どこでもよかったんです」という荻田さんの言葉。
自身のエネルギーを一方向に定める手段が極地への冒険であり、それを続けるうちに「もっと行けるはず、もっとやれるはず」を繰り返してきたのだと。
「なんていうかな、到達することが目的ではないんですね。じゃあどこに向かってるのかって言ったら、大きなラインの上に乗っていることが大事であって、そこは中にこうチェックポイントがあるわけですね。北極点とか、南極点とか。だから、自分の中のイメージの中では、ラインの上にいるわけです。で、このラインの上を走っていることが目的であって。」
「プロセスの中にいることが目的。着くことは目的ではなくて、向かうことが目的なんですよ。着くと向かうって全然違うんですね。着くってのは結果の話。向かうってのはプロセスの話なんです。プロセスの中に身をおいていること、つまり走っていることが目的。で、走りたいんですよ。走っていたいんですよね。で、走り続けて、どんどんどんどん走っていけば、誰も着かないとこには行けるだろうっていう、根拠のないが自信があるってことです。」
「プロセスの中にいることが目的。着くことは目的ではなくて、向かうことが目的なんですよ。着くと向かうって全然違うんですね。着くってのは結果の話。向かうってのはプロセスの話なんです。プロセスの中に身をおいていること、つまり走っていることが目的。で、走りたいんですよ。走っていたいんですよね。で、走り続けて、どんどんどんどん走っていけば、誰も着かないとこには行けるだろうっていう、根拠のないが自信があるってことです。」
「何のためにやるのって聞かれたら、やりたいからやる」
「スタートボタンは押された、その後はただ走ってきただけ。」
そう笑う荻田さん。
もちろん常人には計り知れない苦労や努力があったことと思いますが、当の本人はさらっと「誰でも成し遂げられるんですよ、やるかやらないかの違いだけなんです。」と話します。
そう笑う荻田さん。
もちろん常人には計り知れない苦労や努力があったことと思いますが、当の本人はさらっと「誰でも成し遂げられるんですよ、やるかやらないかの違いだけなんです。」と話します。
「私も常人ですから。例えば100メートルを9秒台で走れというのは、どれだけ努力してもできない人のほうがもう、ほとんどなわけですよ。日本の陸上界でやっと1人出たっていうね。長い歴史の中で。たぶん桐生祥秀よりも努力した人って、多分いるはずなんですよね。」
「彼よりも情熱を傾けて、彼よりも激しいトレーニングを積んだ人は、きっといるはずなんですよね。でも、走れなかった。9秒台で走れっていうのは、やれば出来ることではないんですよね。たぶんそれは常人ではできないというか、そのレベルになってくると思うんですけど、我々がやっていることというのは、だから100メートルを9秒台で走るって言うのを、達成率が0.001%だとしても、我々がやっていることって、やる人が0.001%なだけであって。分母がね、陸上競技だと分母が100万分の1だとするじゃないですか。我々は分母が、もう1なんで。」
「彼よりも情熱を傾けて、彼よりも激しいトレーニングを積んだ人は、きっといるはずなんですよね。でも、走れなかった。9秒台で走れっていうのは、やれば出来ることではないんですよね。たぶんそれは常人ではできないというか、そのレベルになってくると思うんですけど、我々がやっていることというのは、だから100メートルを9秒台で走るって言うのを、達成率が0.001%だとしても、我々がやっていることって、やる人が0.001%なだけであって。分母がね、陸上競技だと分母が100万分の1だとするじゃないですか。我々は分母が、もう1なんで。」
「やりたいからやる」だからこそ心が折れる理由もないと笑う荻田さん。
それは何かに抗ったり無理をすることで生じるものであり、ただやりたくてやってきた自分には無縁のことなのだと仰います。
そんなまっすぐ荻田さん、冒険家人生の中では大きな挫折も味わっていました。
それは何かに抗ったり無理をすることで生じるものであり、ただやりたくてやってきた自分には無縁のことなのだと仰います。
そんなまっすぐ荻田さん、冒険家人生の中では大きな挫折も味わっていました。
半径500キロ無人の地で起きた事故
「2007年にテントの中で火を出して、死にかけて救助されたんです。両手大火傷を負って。その時は、結果的にSOSで救助されてピックアップされて、その時は落ち込みました。2007年から7、8年通って極地が分かった気になってて。甘く考えていたんでしょうね。自分で招いたものなんですけど。燃料こぼしてテントの中で出火して、火が出て、半径500キロ人がいないところでテント燃えてしまって。」
「あ、もう辞めようかなって思ったというのが一瞬ないことはなかったけど、でも失敗したままでそのまま終わらせておくのも許せなくて、そうじゃないってことをまた自分でも証明したくて。」
「結果としては、時をおいて2010年から歩き始めるんです。3年後ですね。」
「結果としては、時をおいて2010年から歩き始めるんです。3年後ですね。」
極点を目指すと決めた2012年からは自らスポンサー集め
「極点やると決めたときからですね、スポンサーを募ろうと考えたのは。それまではアルバイトで稼いだお金で挑戦していたので。極点目指すとなると、例えば今回の南極点も2000万ぐらいかかってますし、北極点も大体1500万2000万ぐらいはそれぞれかかってしまうので、そこからですよね。」
-意識は変わりましたか?
「自分で賄っていた期間ていうのは、なんだろうな。要は自分が好きでやっているわけだから、人から金もらうのは筋違いと思っていたんです。」
「で、この段階でもらっちゃいかんなとは思ってたんですよ。なのでスポンサーを求めて歩いたこともなくて。ただ、その日々を繰り返していったその先には極点がね。そうなるとスケールの大きい費用もかかる、チャレンジをする日がいずれ来たときにはスポンサー集めをする日が来るだろうなというのは、やっぱりイメージとしてはあるわけですよ。だからその時に、その時のためじゃないですけど、ただ今はその段階じゃない。まあ言ってみれば、まだ経験づくりというか。」
「で、この段階でもらっちゃいかんなとは思ってたんですよ。なのでスポンサーを求めて歩いたこともなくて。ただ、その日々を繰り返していったその先には極点がね。そうなるとスケールの大きい費用もかかる、チャレンジをする日がいずれ来たときにはスポンサー集めをする日が来るだろうなというのは、やっぱりイメージとしてはあるわけですよ。だからその時に、その時のためじゃないですけど、ただ今はその段階じゃない。まあ言ってみれば、まだ経験づくりというか。」