「ジョホール・バルの歓喜」から20年!メモリアルギャラリーがジョホール・バルにオープン!“キャプテン翼”の大空翼と岬太郎もイラストで共演!
Johor Japan Friendship Association(以下、JJFA)は、1997年にサッカー日本代表がFIFAワールドカップの初出場を決めた「ジョホール・バルの歓喜」20周年を記念して、ラーキン・スタジアム(マレーシア)に『Johor Japan Football Gallery』を設立しました。
1997年、苦しんだワールドカップフランス大会アジア最終予選。なんとかジョホール・バルでの「第3代表決定戦」に進んだ日本代表は、難敵イランと対戦。激闘と呼ぶにふさわしい試合は、2-2のスコアで延長へ。
すると途中出場の野人・岡野雅行選手がいくつかの好機を逃した末に、延長後半13分に中田英寿選手のシュートのこぼれ球を押し込み、ついに悲願のワールドカップ行きのチケットを手に入れました。
すると途中出場の野人・岡野雅行選手がいくつかの好機を逃した末に、延長後半13分に中田英寿選手のシュートのこぼれ球を押し込み、ついに悲願のワールドカップ行きのチケットを手に入れました。
via prtimes.jp
今回の『Johor Japan Football Gallery』のコンセプトは、「From Larkin to the World」です。このコンセプトは、日本サッカーの歴史の中でも決して消える事のない、ワールドカップ初出場の地であるラーキン・スタジアム。ここから日本が世界に羽ばたいた事実を後世に残していこうという内容となっています。
そして、近い将来マレーシアも、ここから世界に行って欲しいとの願いを込めたものとなっており、「ジョホール・バルの歓喜」を中心とした日本サッカーの歴史と、このスタジアムを本拠地としているジョホール・ダルル・タクジム(JDT)FCの歴史の共同展示となっています。
ギャラリー内には当時の試合を振り返る写真展示をはじめ、当時マレーシアで報道されたニュース記事や、漫画「キャプテン翼」の作者である高橋陽一氏が、FIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選の日本vsウズベキスタン戦でのキックオフ時に三浦知良選手と城彰二選手がボールに祈りをささげたシーンを大空翼と岬太郎が再現したオリジナル原画、そしてこのスタジアムを本拠地としているジョホール・ダルル・タクジム(JDT)FCの歴史など約50点が展示されています。
そして、近い将来マレーシアも、ここから世界に行って欲しいとの願いを込めたものとなっており、「ジョホール・バルの歓喜」を中心とした日本サッカーの歴史と、このスタジアムを本拠地としているジョホール・ダルル・タクジム(JDT)FCの歴史の共同展示となっています。
ギャラリー内には当時の試合を振り返る写真展示をはじめ、当時マレーシアで報道されたニュース記事や、漫画「キャプテン翼」の作者である高橋陽一氏が、FIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選の日本vsウズベキスタン戦でのキックオフ時に三浦知良選手と城彰二選手がボールに祈りをささげたシーンを大空翼と岬太郎が再現したオリジナル原画、そしてこのスタジアムを本拠地としているジョホール・ダルル・タクジム(JDT)FCの歴史など約50点が展示されています。
完成記念式典当日はアンバサダーとして、ジョホール・バルの歓喜の立役者の一人である城彰二氏をお招きし、現地に住む日本人とジョホール・バルの子供たちがサッカーを通じて交流し、彼らの将来の夢につながる、「城彰二 サッカークリニック」も開催されました。サッカークリニックはジョホール・バルの日本人学校や現地の学校に通うマレーシアの子供たち約100名が参加し、大盛況となりました。
城彰二氏はコメントで「なかなか縁がなく、20年ぶりにラーキン・スタジアムに戻ってきました。スタジアムに入ってきた時に色見とは多少変わりましたが、ピッチに立った時はあの20年前が蘇ってきました。
あの試合は思い入れが相当なもので、もちろん喜びもありましたけど、もの凄い緊張感と今まで体験したことがないプレッシャーもあり、辛い想いもしたので複雑な心境でしたが、本日あのピッチに立ち、子供達に指導することができたので、全てが嬉しい想いに変わりました。
サッカークリニックでは日本の子供たちもマレーシアの子供たちもとても元気があり、とにかくサッカーを楽しんでもらうというテーマで行いました。現在監督のライセンスも持っているので、将来この子達が自分のチームでプレイできるようなことがあれば素晴らしいと思います。
『Johor Japan Football Gallery』が完成したことについては、私にとっても日本人にとってもありがたいことなので、是非観光として足を運んで欲しいです。」と語っています。
城彰二氏はコメントで「なかなか縁がなく、20年ぶりにラーキン・スタジアムに戻ってきました。スタジアムに入ってきた時に色見とは多少変わりましたが、ピッチに立った時はあの20年前が蘇ってきました。
あの試合は思い入れが相当なもので、もちろん喜びもありましたけど、もの凄い緊張感と今まで体験したことがないプレッシャーもあり、辛い想いもしたので複雑な心境でしたが、本日あのピッチに立ち、子供達に指導することができたので、全てが嬉しい想いに変わりました。
サッカークリニックでは日本の子供たちもマレーシアの子供たちもとても元気があり、とにかくサッカーを楽しんでもらうというテーマで行いました。現在監督のライセンスも持っているので、将来この子達が自分のチームでプレイできるようなことがあれば素晴らしいと思います。
『Johor Japan Football Gallery』が完成したことについては、私にとっても日本人にとってもありがたいことなので、是非観光として足を運んで欲しいです。」と語っています。
当時、試合が行われたラーキンスタジアムは、1964年に設立されたジョホール州のごく普通の市民サッカー場に過ぎず、この試合を応援するため12,000人のサムライブルーのユニフォームを身に着けた日本人観客がスタジアムに押し寄せ、地元のサッカーファンに驚きを与える事となりました。
その後、2012年2月にジョホール・バルの王族トウンク・イスマイル皇太子がジョホール・バル州サッカー協会の会長に就任すると、このスタジアムは数回に渡って大改修が行われ、劇的な変化を遂げました。
今では皇太子がオーナーである、ジョホール・ダルル・タクジム(JDT)FC(マレーシア・スーパーリーグで四連覇中)のホームグラウンドとなっています。
その後、2012年2月にジョホール・バルの王族トウンク・イスマイル皇太子がジョホール・バル州サッカー協会の会長に就任すると、このスタジアムは数回に渡って大改修が行われ、劇的な変化を遂げました。
今では皇太子がオーナーである、ジョホール・ダルル・タクジム(JDT)FC(マレーシア・スーパーリーグで四連覇中)のホームグラウンドとなっています。
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http://www.jjfa.jp