BOØWY、JUDYANDMARY、GLAYなど多数!佐久間正英さんのプロデュースしたアーティストまとめ
2021年4月3日 更新

BOØWY、JUDYANDMARY、GLAYなど多数!佐久間正英さんのプロデュースしたアーティストまとめ

音楽プロデューサーとして活動されてきた佐久間正英さん。残念ながら2014年に61歳という若さで他界されていますが、名曲は色あせません。プロデュースされたアーティストは約144組ですが、一部をご紹介していきます。

531 view

音楽プロデューサーになったきっかけ

佐久間正英さんは1970年代、四人囃子というバンドで活躍されていました。ログレッシヴ・ロック・バンドと言われていましたね。佐久間さんはギターとベースを担当していました。1979年に一度解散しましたが、その後も何度か復活しています。

1978年からはにはニュー・ウェイヴ・テクノポップ・バンド、プラスチックスに加入。ここではキーボードを担当していました。1979年に井桐氏でデビューしたのち、1980年に日本でデビューしています。

その後はソロアーティストとしても4枚のアルバムをリリースしました。

プロデューサーをするようになったのは1979年。P-MODELの1stアルバムのプロデュースをしたのがきっかけでした。それ以前にも他のアーティストの楽曲のアレンジなどはしていたのですが、本格的なプロデュースはこれが初めて。自らもバンドで活動している時から他のアーティストのプロデュースもしていたんですね。

佐久間さんは自分の色を強く押し出すタイプではなく、アーティストの個性を尊重していくタイプです。

佐久間さんは高校時代からアーティストを目指していたのですが、音楽バカにならないよう、音楽より人間を知ろうということで和光大学人文学部人間関係学科に入学、卒業しています。その時の勉強がプロデュース業の役に立っているような感じがしますね。

BOØWYのプロデュースでプロデュース業が本格化!

Amazon.co.jp: THIS BOφWY: 音楽 (2267213)

布袋寅泰さんから推薦を受け。1985年にBOØWYのプロデュースをすることになります。布袋さんはプラスチックスを気に入っていたそうです。

BOØWYはライブを中心に活動していたのですが、本格的なアルバムを制作するにあたり、佐久間さんをプロデューサーとして迎え入れました。

佐久間さんは依頼を受けた時、ドイツにある「ハンザ・スタジオ」でなら受け入れるといったそうです。ドイツといういつもと違う閉ざされた環境で音楽に集中させたいという思いがあったそうです。ですがもう1つの理由として、怖いからプロデュースを引き受けたくなかった。ドイツといえば断るだろうと思った、というのを晩年に笑い話として語っています。

このアルバムの制作過程で、布袋さんは本格的なプロデュース作業、編曲作業を学んだそうです。それだけの影響を与えていたんですね。編曲者は布袋さん一人の名前になっていますが、実際は佐久間さんと共同で行っています。

また、同じベーシストの松井恒松さんには、ベースの弾き方から伝授したのだとか。

佐久間さんにとっても思い出に残っているプロデュースだったんでしょうね。BOØWYは1987年に解散していますが、佐久間さんも復活を望んでいたそうですよ。

解散後は氷室京介さん、松井常松さんのソロ活動のプロデュースも行いました。

そしてBOØWYのプロデュースをしたことがきっかけで、プロデューサーの仕事が一気に増えていきました。

1990年代には数々のバンドをプロデュース!

Amazon.co.jp: Over Drive: JUDY AND MARY: Digital Music (2267221)

1990年代には数々のメジャーバンドのプロデュースを行っています。

JUDY AND MARYは1994年のデビューアルバムから活動休止前の1998年に発売された「POP LIFE」までを佐久間さんがプロデュースしています。(ラストアルバム「WARP]はTAKUYAプロデュース)JUDYANDMARYはアルバムごとにガラッと雰囲気が変わっているのでプロデューサーが変わったのかな?等い感じがしますがずっと佐久間さんなんですよ。

佐久間さんはアーティストがやりたいことを最大限引き出す、というプロデューススタイルなのでバンドが変わっていけばそれに合わせて変わってくれていたんですね。

さらに1995年にはGLAYのプロデュースも開始。こちらもオファーを受けてプロデュースをしました。GLAYは最初はYOSHIKIさんプロデュース、その後土屋昌巳さんがプロデュースしていますが、同じ1994年のうちに佐久間さんに代わっています。その後2013年まで佐久間さんが担当されていたんですよ。2014年に佐久間さんがなくなっているのでその後は亀田誠治さんがプロデュースされています。GLAYにはキーボードとしても参加されています。

そして1997年にデビューしたHysteric Blueもプロデュースしています。佐久間さんは基本的にオファーを受けてプロデュースをしているのですが、Hysteric Blueに関しては自分で申し出たそうです。Hysteric Blueは結成直後にデモテープを書く音楽業界に送っていました。それを聞いた佐久間さんが何かを感じたのでしょうね。プロデュースをすることになり、デビューが決定しました。デビューから、ラストアルバムまで佐久間さんがプロデュースしていますよ。

プロデュースだけでなく、サポートベーシストとしても参加されています。キーボード、ベース、ギターと数々の楽器を演奏できるのもすごいですよね。

他にもくるり、エレファントカシマシ、黒夢などもプロデュースされているんですよ。幅広いですよね。
8 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

伝説的ロックバンドBOØWYがヴィジュアル系へ与えた影響・系譜を辿る!! Part4

伝説的ロックバンドBOØWYがヴィジュアル系へ与えた影響・系譜を辿る!! Part4

BOØWYが、解散から30年を経た今も多くの音楽ファンやアーティストから熱い支持を受け、語り継がれる 伝説的ロックバンドだといわれるのには理由があります。 日本の不良とロックの関係性をネクストステージに導き、ビートロックと呼ばれる海外にはない日本オリジナルの スタイルを確立し音楽シーンに絶大な影響を与えたからです。 そして、ヴィジュアル系もまたその影響を受け独自の進化をしてきたのです。 今回はそんな進化の過程で誕生したソフトヴィジュアル系とBOØWYとヴィジュアル系バンドの共通点について 語っていきます!
蛍火 | 6,437 view
伝説的ロックバンドBOØWYがヴィジュアル系へ与えた影響・系譜を辿る!! Part2

伝説的ロックバンドBOØWYがヴィジュアル系へ与えた影響・系譜を辿る!! Part2

語り継がれてきたロック界の伝説BOØWY、その影響力はヴィジュアル系にも絶大。 しかし、ヴィジュアル系のカテゴライズ論争や差別問題なども影響していたせいなのか、 「BOØWY」と「ヴィジュアル系」の関係性について語られる事は少なかったように思います。 そこで今回は、前回に引き続き90年代ヴィジュアル系シーンにおけるBOØWYの系譜を辿り、 その影響下にある「ヴィジュアル系ビートロック」と「ソフトヴィジュアル系」の中でも、 今回は”名古屋系”と"ソフトヴィジュアル系" と呼ばれるバンドに迫っていきます!
蛍火 | 6,388 view
YUKIがジュディマリ時代に参加していたユニットNiNaって知ってる?

YUKIがジュディマリ時代に参加していたユニットNiNaって知ってる?

現在はソロとして活躍されているYUKIさん。JUDY AND MARY時代にNiNaというユニットに参加されていたのをご存じでしょうか?このユニットを振り返ってみます。
saiko | 1,487 view
氷室京介をフィーチャーしたアート展『MELODIC PIGMENTS -旋律の色彩-』が軽井沢書店2店舗で開催決定!!

氷室京介をフィーチャーしたアート展『MELODIC PIGMENTS -旋律の色彩-』が軽井沢書店2店舗で開催決定!!

カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が、氷室京介をフィーチャーしたアート展『MELODIC PIGMENTS -旋律の色彩-』を「軽井沢書店 軽井沢店」と「軽井沢書店 中軽井沢店(軽井沢コモングラウンズ内)」にて開催します。
隣人速報 | 167 view
「X JAPAN」のYOSHIKIの実弟『林光樹』は元俳優で現在は〇〇レコードの代表取締役社長!!

「X JAPAN」のYOSHIKIの実弟『林光樹』は元俳優で現在は〇〇レコードの代表取締役社長!!

元俳優の林光樹さんを覚えているであろうか?「X JAPAN」のYOSHIKIさんの実弟で1990年から2000年始めにかけて、数々のドラマや舞台で俳優として活躍されています。現在はYOSHIKIの個人事務所の幹部兼レコードの代表取締役社長だと言います。
ギャング | 2,085 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト