私たちの育った時代は、いわゆる団塊ジュニアと呼ばれる世代の周辺。
団塊世代の親が多く日本は高度経済成長期、住宅地も全国で造営されていた時代でした。
「マンモス団地」「ニュータウン」といった言葉で、大規模な新興住宅街が形成されていった時代。
そんな街区で育った方たちも多いことでしょう。筆者もその一人です。
団塊世代の親が多く日本は高度経済成長期、住宅地も全国で造営されていた時代でした。
「マンモス団地」「ニュータウン」といった言葉で、大規模な新興住宅街が形成されていった時代。
そんな街区で育った方たちも多いことでしょう。筆者もその一人です。
戦後、経済復興期に造営されていったマンモス団地群
1950年代半ばに日本住宅公団によって建設が始まった公団住宅は、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダなどを取り入れ、近代的なものとして憧れの住宅だった。
1960〜1970年代頃に建設された団地は5階建てまでになっているのが多く、エレベーターが設置されていないものが多い。
「団地あるある」は下記をご参照。
「団地あるある」を画像と体験談で振り返る。 これが昭和ぽっくていいじゃないか! - Middle Edge(ミドルエッジ)
近年、若い人が古い団地をリノベーションして住むというのが人気のようですが、団地のこれこそ昭和という画像と体験談を集めてみました。
全国に無数にあったマンモス団地やニュータウン、なかでも全国的に知名度の高かったものを10選して並べてみようと思います。
首都圏などに偏ってしまうことをご容赦くださいませ。
当時はやたらと「東洋一の団地」が乱立していたことが分かります(笑。
首都圏などに偏ってしまうことをご容赦くださいませ。
当時はやたらと「東洋一の団地」が乱立していたことが分かります(笑。
高島平団地(東京・板橋区)
「東洋一のマンモス団地」とも
1972年入居開始、総戸数は10,170戸の高島平団地
団地以外の地域も、高島平全域が新興住宅地で、地下鉄で山手線の駅への交通が確保されていたことから、若年層が多く入居。
旧来よりこの土地に生活していた人々は多くなかったが、その大半は立ち退き、あるいは整備された宅地に転居。この結果、それまで一面の田んぼだった徳丸ヶ原には、高島平団地のみで2万人以上、高島平全域で5万人の人口を抱える一大住宅都市が出現しました。
旧来よりこの土地に生活していた人々は多くなかったが、その大半は立ち退き、あるいは整備された宅地に転居。この結果、それまで一面の田んぼだった徳丸ヶ原には、高島平団地のみで2万人以上、高島平全域で5万人の人口を抱える一大住宅都市が出現しました。
昭和47年「マンモス団地」(高島平)
via www.youtube.com
多摩ニュータウン(東京都多摩市・八王子市・町田市など)
日本最大規模のニュータウン
1971年入居開始、いくつものマンモス団地が林立して街を形成
1住区は面積約100ha、住宅3,000~5,000戸、人口はおおよそ12,000~20,000人の計画。
その住区が21区画で構成されるという壮大な計画でした。
1975年当時約3万人だった人口は、2010年時点で21万人超にも達しています。
その住区が21区画で構成されるという壮大な計画でした。
1975年当時約3万人だった人口は、2010年時点で21万人超にも達しています。
1974年 多摩ニュータウン建設(街作り)の様子
via www.youtube.com
常盤平団地(千葉県・松戸市)
東京近郊の住宅不足の緩和を期待され造営
1959年入居開始、総戸数は4,839戸の常盤平団地
4階建て中層公団住宅170棟とショッピングセンター・集会所・病院・小学校などの施設を有する街で構成。公募によって団地名が常盤平に決定。
松戸市の人口は団地建設によって7万8,937人から11万5,226人に、以後人口は1970年頃まで増加。た。建設当初、見物客が訪れるほど注目を集めました。
松戸市の人口は団地建設によって7万8,937人から11万5,226人に、以後人口は1970年頃まで増加。た。建設当初、見物客が訪れるほど注目を集めました。
via codan.boy.jp
新しい都市
via www.youtube.com
草加松原団地(埼玉県・草加市)
完成当時、東洋最大規模と言われたマンモス団地
1962年入居開始、総戸数は5,926戸の松原団地
完成当時は東洋最大規模と謳われました。
団地はA地区〜D地区に区分、全住居5,926戸の内訳は、1DKが1,376戸、2DKが2,208戸、3K及び3DKが1,680戸、テラスハウスが659戸。
当時は会社役員や官僚なども居住したため、朝の通勤時間帯には迎えのハイヤーが列を作る光景も見られたそうです。
団地はA地区〜D地区に区分、全住居5,926戸の内訳は、1DKが1,376戸、2DKが2,208戸、3K及び3DKが1,680戸、テラスハウスが659戸。
当時は会社役員や官僚なども居住したため、朝の通勤時間帯には迎えのハイヤーが列を作る光景も見られたそうです。
via www.skcst.co.jp