こうして、プロレスラーとしては異色すぎる「お遍路さん」というスタイルが生まれたのです。
名付け親は俳優時代の先輩
「新崎人生」の「新崎」は彼の本名によるものですが、「人生」はある人物に命名されたものです。それは、俳優時代の先輩、宇梶剛士さんでした。
via www.mammo.tv
彼のリングネームの事。彼が戦いの世界に身を投じると決心した時、その名をつけろと彼から頼まれ、僕が彼に贈ったリングネーム<新崎人生>は、僕と彼との付き合いの中で、彼が、彼自らが<精神>の柱となる事を背負い歩く男になるだろうと 何時も感じ続けていた僕の中から、本当にごく自然に出て来た言葉を彼に贈っただけであると言う事。
ルードからリンピオへ
新崎人生」になってからしばらくは、ルード(悪役)としての活動が続きました。ついたあだ名は「極悪坊主(お坊さんじゃないのに…)」。その評価を一変させたのが、みちのくプロレスのエース、ザ・グレート・サスケとの一騎打ちでした。
ザ・グレートサスケはみちのくプロレスを旗揚げし、「東北の英雄」として今もなおエースとして活躍している。旗揚げからしばらくして「極悪坊主」として新崎人生はみちのくに参戦を果たした。そしてジュニア中心の団体を人生はパワーで圧倒していった。自らの闘いを修行にたとえ、10ヶ月間かけて八十八番を闘った。そのけじめの闘いでサスケを倒すこと目標とした。1994年、3月31日『幻の八十八番札所』として壮絶な闘いをみせたが両者KOとなる。4月29日に再戦し、両者共自分の持ち技を全て出し尽くした後半、サスケのお株を奪う秘技・拝みケプラーダを繰り出しフォール勝ちをおさめた。
その特異なキャラクターと確かなレスリングテクニックから繰り出される技の数々は、やがて海外のプロモーターの目に留まるのです。
異例の抜擢でメジャーリーガーに
人生選手を抜擢したのは、アメリカを拠点に世界中にファンを持つ、WWF(現・WWE)。
わずかデビュー数年、しかもインディー団体のレスラーが、アメリカの超メジャー団体と契約を結ぶというのは、当時では考えられない出来事でした。試しに野球で例えてみると「地方の独立リーグに所属する若手選手が、メジャーリーグの人気球団とメジャー契約を結ぶ」くらいの大事件です。
海を渡った彼は、新たなキャラクターに変身します。
わずかデビュー数年、しかもインディー団体のレスラーが、アメリカの超メジャー団体と契約を結ぶというのは、当時では考えられない出来事でした。試しに野球で例えてみると「地方の独立リーグに所属する若手選手が、メジャーリーグの人気球団とメジャー契約を結ぶ」くらいの大事件です。
海を渡った彼は、新たなキャラクターに変身します。
白使(ハクシー)世界を翔ける
via kbblog.exblog.jp
ハクシこと新崎人生は、その不思議な容姿と攻撃で1990年代中期にWWEファンを魅了した。
ミステリアスな日本人スーパースターは1995年1月9日にWWEデビューを果たす。傍らには白い顔面ペイントを施したシンジャを従え、さらにハクシは全身白づくめだった。リングに上がり、笠を外し上着を脱ぐと、顔からつま先まで漢字がプリントされるという容姿は、WWEファンの度肝を抜いた。
この「白使」の代表的な試合として記憶に残るのは、怪奇派レスラーの第一人者であり、「白使」のキャラクターの原点ともいわれる「ジ・アンダーテイカー」戦と、武藤啓司選手の化身「ザ・グレート・ムタ」戦ではないでしょうか。特に、ザ・グレート・ムタ戦では、白使の持参した卒塔婆に、大流血した白使の血を使ってムタが「死」の文字を書くという、今ではとてもテレビ放映できないような場面が繰り広げられたことでも有名です。(後に、武藤選手とはユニット「BATT」で共闘し、「白使&黒使無双」のタッグで数々の名勝負を生み出しました)
Great Muta vs Jinsei Shinzaki - 04/29/96
via www.youtube.com
2年間の海外生活を経て、彼は再びみちのくプロレスで「新崎人生」としての闘いを再開させます。
天竺巡礼
重ねて申し上げるとおり、新崎人生は「お遍路さん」、つまり巡礼者です。その彼が、プロレスという長い巡礼の旅でひとつの到達点と定めたのが、日本のプロレス界の雄、全日本プロレスでした。
1997年に全日本プロレスの試合会場に突如現れ、ジャイアント馬場の前で合掌して参戦志願。それが認められ同年7月のサマー・アクション・シリーズに参戦。ジョニー・スミスと組んでの秋山準&馳浩戦で好ファイトを展開し、以降継続参戦していた。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、FMWのハヤブサと組んで出場。戦績は2勝7敗と奮わなかったものの、多くの好勝負を展開。中でも三沢光晴&秋山準組との試合では、あわや大金星と思わせた。